徳川綱吉は、何故、近年劇的に評価が上がったのですか? 忠臣蔵では間違いなく、綱吉の偏った裁きで悲劇が起こったと言うのに どういう理由で、劇的評価が上がったのでしょう? 1988年版にはこうある

補足

ご回答有難う御座います 締め切り迄未だ3日 歴史の評価は、時の権力者によって評価が変わる 時が動くのは、政権交代の時だと思っていました それが、こんな平和の時代に 男性も女性化?と騒がれる時代に 赤穂事件は、両成敗(吉良上野介が一週間程の謹慎処分でも良かった)と弟君の浅野家再興の望み 仇討ち主流の武家社会、どうなるか、先が見えない将軍はどうかと思います 皆様のご意見は御座いますか? 「追加」記入で願います

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2013/4/20 21:21(編集あり)

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

沢山のご回答有難う御座います 今回は、本当に甲乙つきにくい力作揃いのご回答に思えました 日本の国の歴史をこんなに真剣に論じ会える社会に生まれて本当に有難いと思いました また、このような、評価の転換をこの目で見ることができた事は、本当に、生まれてきた時代がよかった、争点に感謝いたしたい今日この頃です 成る程、先駆者たちの評価も、現代の評価も変わったのでしょう 皆様方のご回答と、その評価に、心から感謝致します

お礼日時:2013/4/25 20:55

その他の回答(5件)

まず赤穂事件(忠臣蔵)の件ですが、物語で美化するためにあたかも不当な裁判がされたかのように創作されているだけで、実際には当時の法律基準でいっても、浅野内匠頭(重要な儀式の最中の江戸城内で突然、一方的な殺人未遂)と赤穂浪士(裁判などに訴えず吉良側の具体的な非も挙げずに、大量虐殺テロ)への処置はほぼ妥当です。 事件当時は、法律よりも武士の面子を重んじる風潮がまだ強かったため評価されましたが、現代基準で言えば綱吉の処置のほうが正しい。 綱吉政権の評価も、昔から評価する人は評価していたのですが、劇的に上がったのは1990年ごろあたりから。 見直されたのは主にこの三点 ・将軍側用人 従来は将軍の威を借りて横暴に振舞い、将軍を政治から遠ざけて政治を腐敗されていたように見られていたが、実際には綱吉本人が積極的に政治を行い、そのために新たに抜擢した直属の部下として活動していた。 評判が悪かったのは、老中などの門閥からの反発や、急激な”成り上がり者”へ嫉妬が大きかったため。 ・生類憐みの令 これも、当時の日本はまだ中世~戦国時代の暴力的な気風が残っていて(だからこそ赤穂事件のような現代感覚で言えば法律や裁判を無視しての虐殺テロが起こり、しかもそれが賞賛されることまであった)、それをあらためるための教育・統制政策の一環であったと大幅見直し。 ・貨幣改鋳 これも「質が悪い貨幣を増発した=数を増やして幕府の利益だけを図った悪政」と見なされていたが、実際には、貨幣の材料になる鉱物資源が枯渇していたのに経済発展で貨幣の必要量は増え続けていて、それに対応するための政策でもあったと大幅見直し。 他にも、吉宗の”享保の改革”の前段階的な様々な改革政治をしています。 ただ綱吉の政治というのは非常に強権的で、それで当時の評判が悪く、そのイメージだけを見た後世の人間が「評判が悪い=実質的な政治も悪かった」と誤解してしまった。 追記について そもそも「武士たちに法秩序と幕府の権威を厳しく守らせる」というのが綱吉政権の基本方針で、それ一貫してやったのを”先が見えない”とするのは的外れです。 また赤穂浪士の討ち入りに関しては「大石内蔵助が有能かつ途中から討ち入りに積極的になった」という予想外の要素も大きい。集団の取りまとめ、作戦指揮、大義名分の整え方など。大石がいなければ、少数の過激派だけで場当たり的に実行して失敗に終わっていたか、討ち入り自体が起こらなかった可能性のほうが高い。

綱吉の母が、済州島出身というのが関係しているのではないでしょうか? だから、綱吉は、百済の血なんですね。 生類憐みの令は、当時、皮はぎ等を商売にしていた神道崇拝の原住民系への嫌がらせであったそうです。動物が殺せないと、毛皮の商売ができなくなるから。 綱吉は特に犬を愛好していたわけでなく、仏教を奨励することで、仏教の金銭をワイロとして取り込むためだったそうです。

殺人は良くないよね。人の命は大切だよね。 という至極当然の現在の感覚を取り入れた非常に先進心的な統治者ですから、 徳川綱吉という人物が評価されるのは当然です。 忠臣蔵に関しては幕府側の裁きは現在の感覚ですら正当でまともです。 幕府はかなり寛容さをもって気を使い、現実的な平和的国家運営を行う上で、 可能な限りの最大限寛容な対応をしました。 江戸の日本は、建前と本音を駆使した政治で、 事実として寛容さを保持していましたし、 世界に誇る非常に先進的で平和的文化的国家だという事です。

そもそも、殿中で人沙汰におよぶのは切腹ものですよ。 このような事件も発生しています。 延享4年(1747年)8月15日、江戸城本丸大広間において、熊本藩第5代藩主・細川宗孝が旗本の板倉勝該に背後から斬りつけられ殺害された。上野国安中藩主・板倉勝清と間違えられたのが原因であるが、嗣子のいない細川宗孝が殺害されたことによって熊本藩は無嗣断絶の危機にさらされることとなった。そこで、その場にたまたま居合わせた宗村は機転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。家臣たちは細川宗孝の遺体をまだ生きているものとして細川藩邸に運び、家中では急いで弟の細川重賢を養嗣子として幕府に届け出て、藩主・宗孝は介抱の甲斐無く死去したことにして事無きを得たと言われている。板倉勝該は切腹させられています。細川家はこのトバッチリ事件で家紋のデザイン変えています。 綱吉時代が一番、景気がよく、また、江戸の街も一番治安が良かったのも事実です。

綱吉の評価の変遷はともかく、『忠臣蔵での偏った裁き』というのは誤りです。 赤穂事件(忠臣蔵はお芝居です。史実は赤穂事件)とは、結局江戸城の室内でいきなり刀を振り回して切りかかったという通り魔事件のようなものです。 殺人には至らなかったものの、高いセキュリティの求められる場所で、しかもイベント直前にイベントの中心人物に切りかかったわけですから処罰の対象になるのは当然です。 これで吉良側が「主君の敵」として赤穂に攻め入るというのならともかく、加害者の身内が、加害者が果たせなかった「殺人」を遂行しようと徒党を組んで被害者宅に押し入り殺人を実行したわけですから、まさに狂気の沙汰といえるでしょう。