iPadとiPhone

私は、先週金曜日のiPhone6予約開始と同時に、simフリーの6Plus(128G・シルバー)をアップルオンラインストアで予約し、発売日の19日に届きそうで、とりあえず、ほっとしているのですが(昨年の今頃は、アップル銀座の前に徹夜して並びiPhone5sを入手し大変でした、その際、差入れをしてくださった皆さん、ありがとうございました)、6Plusの画面が5.5インチと従来のiPhoneよりはかなり大きくなっていて、持っているiPadmini(Retina)との使い分けが、今後、やや変わってくるだろうと感じています。
コンテンツをじっくりと見たり大画面でメールを読み書きしたりするのには、iPadminiが便利ですが、ぱっと取り出して何かをすぐに見る、書き込む、といったことをする場合には、iPadminiには、やや、大袈裟感があることが少なくありません。また、航空機内が典型的なのですが、iPadminiのサイズでは、座席の前ポケットに入れるのにかさばったり、食事が出されたり何か別のことをするのに、ちょっと脇に置いたりするのにかさばる、という感じも私にはあります。そういう場面で、iPhone6Plusのサイズ感には、おそらくちょうど良い、絶妙なものがあるのではないかと期待しています。iPadminiで電話をするのはかなり困難なものがありますが、iPhone6Plusであれば電話ができるのも便利なところです(この点は従来のiPhoneと同じですが)。
では、iPadminiが不要になってiPhone6Plusが、いわゆる「ファブレット」になりそこに収斂されるのか、というと、これは今後、やってみなければわからない面はありますが、私の場合はそうはならないだろうと予想しています。例えば、紙でA4サイズの資料(割と細かい文字が詰め込まれているような)を見るのに、iPadminiではかなり見やすくなりますが、これが、いくら5.5型であってもiPhone6Plusでは、やはり見にくく感じるでしょう。最近、老眼が進んできつつあり、眼鏡も遠近両用レンズに変えつつあって、そういう身体の状況に照らしても、ファブレットで一本化する、というのは、私は無理だろうと思います。
むしろ、こうしてiPadminiとiPhone6Plusを使い分けるようになり、他にも複数のタブレットスマートフォンを使っていて、ノートPCを使う機会が以前よりも激減、という状態はますます強まりそうです。タブレットスマートフォンを駆使していると、タッチパネルでぱぱっといろいろなことが処理できるのが便利で、ノートPCよりもそれらで済ますことが多くなります。事務所ではデスクトップPCを机上に置いて、いろいろな作業はそれでやっているのですが、そこを離れると、ノートPCよりはタブレットスマートフォンという状態で、ノートPCが売れなくなるのもわかるな、ということを、こうした自分自身の状態に照らしても感じます。

2014年09月14日のツイート

イスラム国:国家的統治 フセイン政権残党が組織

http://mainichi.jp/select/news/20140915k0000m030093000c.html
http://mainichi.jp/select/news/20140915k0000m030093000c2.html

フセイン政権の残党がイスラム国と結びついたのは、イラク戦争後に政府軍が解体され、バース党幹部が公職から追放されたためだ。フセイン元大統領は自身と同じイスラムスンニ派を重用していたが、新政権への移行は人口の約6割を占めるシーア派が主導。不満を募らせた元政権幹部が、スンニ派イスラム国に流れる土壌ができた。

過激派に詳しいイラク人の安全保障専門家のヒシャム・ハシミ氏は「フセイン政権は政教分離世俗主義で、宗教色が薄かった。だがシーア派中心の政府に排除され、スンニ派の元幹部らがイスラム原理主義に染まった」と指摘する。

イラク戦争開戦の理由となった「大量破壊兵器」が、実際は存在しなかったことが後に徐々に判明したことは今なお記憶に新しいところですが、そうまでして無理に開戦しその後も多数の米兵等が犠牲になって、その結果、生み出されたものがイスラム国であった、といのは皮肉なことと言うしかありません。処刑されたフセイン元大統領も、いろいろと問題があり、そうであるからこそ処刑までされるに至ったわけでしたが、イスラム国に比べれば、まだ理屈は通じる相手であり国際社会が圧力をかけコントロールできる余地があったと言うべきでしょう。目の前の悪に目を奪われるあまり、それを排除することで、より大きな悪を生み出してしまったという現状に、巻き戻せない時間への苛立ちのようなものを感じます。
何事にも通じることですが、敵を追い詰めすぎることで、窮鼠猫をかむ、といった状態になってしまい、手ひどい反撃を受ける、ということはできるだけ避けるべきで、適度に、ほどほどにとどめておくことの重要性、有用性ということを感じさせるものがあります。