経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、下村治

2011-04-04 03:13:05 | Weblog
    下村治

 下村治という名は専門のエコノミストなら必ず知っている名前です。1960年岸内閣退陣の後を受けて成立した、池田内閣は積極的に日本経済の成長を促進する政策を打ち出します。この所得倍増政策に理論的な根拠を提示したエコノミストが下村治です。1960年からの10年間、日本経済は年間成長率10%を連続して超え、欧米の水準にまで達し、この成長は世紀の奇蹟と言われました。1968年日本はGDP総額で西ドイツを抜き世界第二位の地位を獲得します。池田内閣の成長政策を、なんでも反対の野党の社会党はおろか、専門の経済学者でさえ、歓迎して向かえたわけではありません。下村は最低の成長率を9%、事実はそれ以上と予測しましたが、他の学者の想定はせいぜい7%というようなものでした。以下下村がよって立つ論拠と考え方を整理して提示してみようと思います。
 下村は、設備投資が成長の基本変数、であると考えます。この考えは常識でしょう。そして彼が依拠するのはあくまで客観的な数字です。(注1)特に大切な数値は限界需給比率です。需給比率は以下のように定義されます。
  
限界需給比率 = GNPの増加/民間設備投資の純増額

若干説明しますと、輸入はその国の経済活動にほぼ比例します。景気がよくなり生活が楽に派手になると、贅沢もしたくなり、海外からの輸入は増えます。より多く消費するのですから、外国製品も欲しいし、内需増加は原材料の輸入を促進します。また民間の設備投資が貧弱では輸出はできません。理論的には投資ゼロなら輸出もゼロのはずです。ですからこの定義は合理的です。なお純増額とは投資増全額から廃棄設備更新のための資本額を差し引いた額になります。
経済成長は民間設備投資により促進されます。ですから設備投資は成長の必須条件です。問題はこの成長にインフレが伴うか否かです。限界需給比率が1・0前後にある時は、インフレはおきない事を下村は数値による経験から実証します。需給比率の定義から、この数値が1.0前後に収まる時には外貨不足も起こりません。
インフレが起きない理由を説明しますと、生産の増加、財貨の増大、コストの減少、価格の低下、(実質)賃金の増加、というからくりになります。効率よく生産し、生産物の増加を享受し、生活水準が上がる、つまり実質的な賃金が増加する、というわけです。総需要の限界が総生産力の限界を超えない限り、経済はインフレなしで成長します。事実高度成長期の10年間、卸売物価指数(生産者間での取引価格)はほとんど増加していません。
しかし我々民間人の生活における物価すなわち消費者物価指数は上がりました。私の経験ではこの10年間にコ-ヒ-一杯35円が250円くらいになったような印象があります。消費者物価指数は上がって当然だと下村は(別に彼だけに限ったことでもありませんが)言います。製造業で生産される財貨の価格は下がります。(注2)だから製造業及びそれに関連する産業に従事する者の賃金は上がります。(注3) しかし理髪料や医療費、学校の先生の給料など民間サ-ヴィスの料金は製造業発展の恩恵を直接には受けません。だから生活水準が一定に保たれる限り、これらのサ-ヴィス料金は上がらざるをえないのだ、と下村は言います。正直ここのところの論旨はもう一つ弱いようです。注を見てください。
下村の論旨の要点は以上で尽きます。彼は自分の理論を補強するために以下のように考えをまとめます。
二重構造の問題があります。当時(現在でもそうかも知れませんが)大企業と中小企業の賃金格差は大きく、この格差を経済学者は二重構造と言っていました。下村は、二重構造は原則的には解消可能だと言います。高能率産業が発展すれば、不能率産業は衰退し間引かれ、そこの労働者は前者に吸収されるからだと。同様に生産性の低い農業も、その就労人口の大部分は高能率産業、当時では電機、機械、自動車、化学産業などに吸収される、としました。この予言は一部以上に当たっています。しかし農業の問題相変わらずですし、大企業と中小企業の格差が解消されたとまでは言えません。(注4)
下村は貯蓄と投資の均衡に基づく政策を批判します。貯蓄投資の均衡よりも、有効需要と需要を満たすための設備投資が、なによりも重要だとされます。また均衡財政にも極めて批判的です。均衡財政は金本位制下の習慣(彼にとっては悪習でしょう)の為すところだと、します。(注5)確かに金本位制下では後発国の成長には限界があります。また均衡財政に固執すると成長の機会を失います。均衡財政は持てる者が安定したポジションを維持するための処方でしょう。
ですから下村は金本位制ではなく管理通貨制、自由放任ではなく完全雇用政策、つまりケインズ的な考えに近づきます。(注6)
そして流通貨幣量の増加を勧めます。生産数量の増加は通貨金融取引総額の増加を要請するから、日銀による信用創造を拡大し、通貨量を増大しなければならない、つまり事情によっては日銀券の増刷は必要だ、そうすれば経済の拡大成長が金利高騰をもたらすことはない、と言います。
また貿易自由化を積極的に勧めます。自由化で財貨と資本の移動が自由になれば、比較生産説に従い、高能率産業(企業)が残り成長し、全体として生産量は上がる、とされます。(注)
下村がこのように強気になれた根拠は当時の日本の技術及び労働生産性の高さへの信頼にあります。ここで彼は面白い比較をします。戦前昭和8年から12年までの鉱工業生産指数の伸びは65%、同時期卸売物価指数の伸びは32%でした。戦後昭和30年と34年の二つの数値はそれぞれ、84%と2%です。戦前は生産が上がれば物価も自動的に上昇した、しかし戦後ではそうではない。理由は労働生産性つまり技術力の差だと下村は言います。現在ならTFP(total factor productivity)の差というべきでしょう。
彼の所説はほとんどが1960年(昭和35年)以後の数年間に発表されています。私は大学の1・2年生でした。当時の各国の一人当たりのGNPを挙げておきます。
   アメリカ          2800ドル
   イギリス・西ドイツ     1200ドル
   フランス          1000ドル
   イタリア           600ドル
   日本             500ドル
                (当時は固定相場制 1ドルは360円)
またやはり当時の日本とソ連の生産力の比較も挙げておきましょう。
   乗用車生産 日本はソ連の5倍
   テレヴィ        4・5倍
   ラジオ受信機      4倍
   電気洗濯機       4倍
   電機冷蔵庫       4倍
   電気掃除機       7倍
   家庭用ミシン      2倍
粗鋼生産量は
   日本         3000万トン
   ソ連         6500万トン
ちなみに人口は日本が9400万人、ソ連はその3倍でしょう。ただソ連の統計はあまり信用できません。
下村治は1910年佐賀県に生まれ、1934年東大経済学部を卒業し大蔵省入省、経済安定本部政策課長、日銀政策委員を歴任し、1984年退官、以後国民金融公庫理事、日本開発銀行理事をしています。1989年死去。なお佐賀県出身の経済学者としては高田保馬がいます。
下村治を語るに際して、池田隼人を抜きにすることはできません。下村の理論を実際の政策に実現したのが、池田隼人です。経済政策において積極的な政策をとるか、守衛的な態度を取るかは、本人の気性に左右されるところが大きいのでのが、池田は戦後の第一次吉田内閣の蔵相石橋湛山の影響を受けています。石橋達の主宰する復活金融公庫(復金)によりばらまかれたお金がインフレの原因になりましたが、逆に言えばそれで日本人は餓死から免れました。池田は当時吉田茂の腹心として蔵相石橋と接触する事が多く、石橋財政をじかに学んだ形跡があります。以後池田は石橋の盟友として、石橋内閣の蔵相に就任しています。石橋が病気で倒れ、岸信介が後を継ぎ、岸内閣が安保騒動で退いた後に組閣した事は周知の事実です。下村はいい親分に恵まれました。(注7)

参考文献 日本経済成長論(下村治 中央公論社)

(注1)池田首相はあまり本を読まない人でしたが、経済統計の数値はほとんどそらんじていました。マスコミや野党は池田首相のこの態度を、数字のみ見て人間の現実を見ない、生きた血の通わない政治だ、と批判しました。しかし私は経済はつまるところ数値が第一だと思います。個人の経験や直感でものを言うのは無責任です。解りやすい例を挙げますと、マスコミが騒ぐ犯罪報道です。彼らの記事を見ていると日本の社会秩序は崩壊寸前のようです。しかし警察白書や犯罪白書を一読すれば、殺人を始めとする犯罪の数値が特に上昇しているという事はありません。ある大阪府警の幹部は、マスコミが煽るので、社会の警察への信頼が薄くなって、操作に支障を起こすと、歎いていました。
(注2)確か昭和26年に日本で始めてTV受像機が初売されました。その時の店頭での価格は約18万円でした。現在は1万円でも買えます。
(注3)製造業の生産性が上がればより多くの財貨を生産できます。製造業関係者の中でのみ生産物が分配されるという仮定を設けるなら、彼らの分配は増えます。貨幣量が生産量に比例して増加すると仮定すれば、彼らの取り分は増え、賃金は上がります。サ-ヴィス業に従事する人達の賃金もそれに連れて上昇せざるを得ないのですから、仮に産業全体に占めるサ-ヴィス業の割合を30%とすれば貨幣流通量の増加は更に30%増さなければならない事になります。生産量の増加に比し貨幣量は1・3倍増えるのですから、消費者物価も1・3倍になります。生産性の良くない農業や中小企業に関しても同様のことが言えます。ただしこの論旨には多くの仮定が含まれています。製造業内部での分配と言う仮定には貨幣の役割は含まれていません。物々交換の論理であり古典派の均衡論に近い考えです。またサーヴィス業の料金が製造業のそれに比例して上がるという事は必ずしも起きません。上昇の比率はより小さいでしょう。
(注4)大企業と中小企業の賃金格差は現在でもあります。その事情を反映してか、医療保険の制度でも両者は異なります。下村は農業は将来、資本主義的大農経営になるべきだと、言っているように思われます。事実は農家の生活水準は、兼業と国家補助と土地の値上がりで上昇しています。私は農業は大農経営に移行すべきであると思います。でないと日本農業の技術が生かせません。ただし農業に関してはどこの国も同じで先進国はすべて農業保護の方針を取っています。
(注5)貯蓄と投資が必ず均衡するという考えは、かなりいんちきな部分を含みます。投資には在庫投資も含まれます。いくら不景気でも在庫をどんどん増やせば投資は上昇するという論旨になります。もっともこんな事は現実には絶対起こりません。貯蓄もたんす預金まで含めれば、もてる金はすべて貯蓄になります。こう考えれば均衡は当然です。だからケインズはこの均衡論を公理、つまり「a+b=a+b」のような完全に正しいが形式的で経験からくる情報を一切含まないだから役に立たない公式、だと言いました。貯蓄と投資の均衡をもう少し現実的な理論に直せば以下のようになります。貯蓄が増えれば利子が下がる、そうなれば投資しやすくなる、従って貯蓄は減る、逆の場合も論理は同じ、という事です。
貯蓄と投資の均衡を財政に適用すれば均衡財政、つまり赤黒差し引きゼロ予算になります。均衡財政では、不景気になると税収は減る、その分民間の収入は増加するのだから、しばらく立てば景気は回復する、好況の場合はこの逆、という論旨になります。また不況でも実質価格が下がるとは言えませんので、やがて景気は回復する、という論旨も含まれます。このような考え方には一理有り、現在の財政論にも応用されています。いわゆる、埋め込まれた自動調整装置、です。
均衡財政論のモデルは金本位制です。金本位制下にあっては、好況だと物価は上がり輸入が増え、金が流出します。そうすると国内では金不足になり、物価は下がり不況になり、同時に輸入が増えて云々となり、以前のポジションに帰ります。金本位制は金の保有国に有利な体制です。どうあがいても事実として金を沢山持っている国にはかなわない、所詮金保有量という上限を突破できないのですから。金本位制が一番うまく行ったのは第一次大戦前の世界でした。当時イギリスは世界一の金保有国でした。
貯蓄と投資の均衡、均衡財政、そして金本位制をすこしくどく説明しました。要は金(GOLD)に代表される貨幣と財貨の間で演じられる需給関係という、自然な(?)法則に経済現象を任せる事にあります。このような考え方を自由放任政策、厳密な意味でのリベラリズムと言います。1929年の大不況の時、多くのエコノミストや財務官僚達はこの見解に依拠して結果として大失敗しました。しかし自由放任政策は経済政策の重要な柱の一つです。
(注6)自由放任政策を厳密に適用すると、不況は自動的に回復するから何もしなくてもいい、となります。非常に長期間を取ればそうかもしれませんが、その間に経済機構が破壊され社会の治安は悪化して、回復不能になります。原始的な経済ならともかく、現代のような高度に発展した体制下の経済では自由放任政策は危険です。そこで不況下で眠っている生産力を人為的に回復させる政策が、大不況の苦い経験から試みられました。このやり方を体系的に主張したのがケインズです。まず公共投資を行います。企業とその雇用者に仕事を与え、賃金を介して世間に金をばらまきます。また金利を下げて企業の借り入れをしやすくします。貨幣流通量を高めて、資金繰りを良くします。賃金は上がり、消費は増え、企業の資金は増え、物価が上がる分販売は促進されます。ただ社会の体制が一定であれば、この人為的な景気促進策にも限界があり、限界を超えればインフレになります。作っても売れなくなります。この限界を完全雇用と言います。完全雇用がどのくらいかの決定には理論的根拠はありません。経験的に失業率3-4%くらいとされています。なおケインズも下村も低金利をもって景気浮揚を計ることには、懐疑的です。公共投資のためにはお金をどこかから持ってこなければなりません。不況では政府の懐は乏しいのですから、政府の権威でもって、貨幣を増量つまり増刷しなければなりません。ですから貨幣の量は政府により管理されることになります。現在のどこの政府も自由放任を基調として、適宜管理通貨政策を行っています。
(注7)下村の親分である池田隼人と当時(というよりもう少し前)法王と言われた日銀総裁の一万田尚人は経済政策において犬猿の仲でした。一万田は均衡財政論者です。池田と一万田は共に吉田政権を支えましたが、両者は全く無関係に仕事をしていたようです。一万田にはもう一つの逸話があります。昭和25年(1950年)川崎製鉄の西山社長が、当時の最新技術であるストリップミルを千葉県内に整備して銑鋼一貫の製鉄所を作ろうとしました。一万田は日銀総裁として、この試みに反対し、「敷地にペンペン草をはやしてやる」と言ったそうです。結果は川鉄の目論見どおりになりました。なお一万田尚人に関してはもう少し後の列伝で取り上げます。

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