〈重荷を負うて道を行く 翁長雄志の軌跡〉5 第1部 政治家一家 兄の秘書務め政治学ぶ


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
生家の前で撮られたとみられる翁長家の家族写真。後列右から2人目が雄志=撮影年不明(国吉真太郎氏提供)

 翁長雄志は高校卒業後、2浪して東京の法政大法学部に進んだ。母・和子の「政治家にはしない」という意向に沿って医学部を目指していた。当時の沖縄は医師不足で、那覇高校を成績上位で卒業した同級生も医者を目指していた。しかし2浪目のころ父・助静(じょせい)が「いい加減、自分の行きたいところに行かせなさい」と和子に言い聞かせた。

 大学には3歳年上のいとこ、国吉真太郎がいた。雄志は東京都千代田区の九段北にあった国吉の下宿先から、よく本を借りて読んでいた。「本棚のものはいつでも借りていいと言っていた。山之口貘の詩集『鮪に鰯』やチェ・ゲバラの『ゲバラ日記』、フランクルの『夜と霧』など、さまざまな本を読んでいた」と振り返る。一緒に神田の古書店街にも足を運んだ。

 雄志は読書家で、植民地主義を批判するポストコロニアル理論の先駆者とされるフランツ・ファノンの「黒い皮膚・白い仮面」など、後年注目される本も当時から読んでいた。

 70年11月25日、法政大に近い陸上自衛隊東部方面総監部で「三島事件」があった。作家の三島由紀夫が陸自総監を人質にして「楯の会」会員とともに立てこもった。隊員に自衛隊を否定する憲法の「改正に決起せよ」と呼び掛け、会員1人と共に割腹自殺した。国吉は「目立ちたがり屋のパフォーマンスだ」と言ったが、雄志は「政治的思想に命を懸けられる人間もいるんだ」と言っていた。

 大学時代、雄志は同級生を亡くしている。ともに医学部を目指した平良秀雄だ。2浪後、雄志は法政大、平良は早稲田大に進んでいたが、骨肉腫の再発で在学中に亡くなった。那覇高校時代、3人で時に夜通し語り合ったという新里叡(さとし)(68)は「東京でも割と頻繁に会って友情を深めていたようだ。亡くなってからだいぶ悲嘆に暮れていた」と語る。「子どものころから死を意識して生きてきた」という雄志にも、同級生の死は大きな衝撃を与えた。

 大学を卒業すると沖縄に戻り、雄志は72年から県議を努めていた兄・助裕(すけひろ)の秘書になる。79年に助裕が新自由クラブから衆院議員選に出馬した際も、雄志は選対で支えた。新自由クラブは、政治倫理を巡って自民党を離党した河野洋平らが76年に設立していた。

 助裕は既存の政治の「金権腐敗」を批判し、保守・中道による新たな政治潮流を生み出して「さわやかな政治」を実現することを訴えたが、及ばなかった。少数政党の悲哀を味わった形だが後年、雄志はこの選挙について「自民党を外から見た経験は大きい。自民党と社会党を中心とした55年体制にとらわれない柔軟性が培われた」と語っている。
 (敬称略)
 (宮城隆尋)

(琉球新報 2019年3月22日掲載)