コラム:人手不足でも物価が上昇しにくい理由=門間一夫氏

門間一夫 みずほ総合研究所 エグゼクティブエコノミスト/元日銀理事
[東京 3日] - 日銀の異次元緩和は既に7年目になるが、2%物価目標が実現するめどは今も全く立っていない。その理由として日銀は、賃金・物価が上がりにくいことを前提とした考え方や慣行が根強く残っていると分析している。
これはその通りだろう。
その上で日銀は、マクロ的に需要超過の状態、すなわちプラスの需給ギャップが続いているうちに、人々の考え方も変わり、インフレ率は2%に近づいていくと論じている。これはその通りだとは思いにくい。
プラスの需給ギャップとは、単純化して言えば人手不足状態のことである。実際、失業率は26年ぶりの低水準であり、有効求人倍率も44年ぶりの高水準で推移している。人手不足を巡る報道も枚挙にいとまがない。
これだけ人手不足なら、賃金上昇率がさらに高まり、それが価格に転嫁されていくというのが、伝統的にイメージされるストーリーではある。
<実は上昇している賃金コスト>
実は、賃金コストは既にかなり上昇している。1人当たり平均賃金はそれほど高い伸びではないが、それは女性や高齢層の雇用拡大が、平均賃金を押し下げていることによる面が大きい。
だとすれば、最近の賃金情勢は雇用の拡大と合わせて認識した方が良い。筆者の試算によれば、雇用と賃金を掛け合わせた家計所得は、2018年に3%も増加した。これは26年ぶりの高い増加率である。人件費が上昇しているという企業の悲鳴には、データの裏付けがある。
一方で物価の基調にあまり変化がないという事実は、人件費が価格に十分転嫁されていないことを意味する。ただ、それは決して不自然なことではない。そもそも賃金と物価をひとくくりに論じるのが、ややミスリーディングなのであって、賃金が上がっても物価は上がらない、という均衡も十分あり得る。
もちろん、コスト上昇を価格転嫁しないこと自体は、企業収益の圧迫要因になる。しかし、企業はこれに、1)生産性の引き上げでコストを吸収する、2)人手が確保できない業務は縮小する、という選択肢で対応することもできる。
1番目の場合は賃金が上がっても物価は上がらないし、2番目の場合は、賃金の上昇圧力自体が抑制される。今の日本では、その両方が起きていて、ごく部分的に価格転嫁も行われている、というバランスになっているように思われる。
最近コンビニ業界では、24時間営業を縮小する動きが見られ、出店ペースも頭打ちだ。路線バスでは、乗降客数が落ちていない路線でも、運転手不足を理由に減便の動きがある。いずれも、価格や料金の引き上げに解を求めるのではなく、営業活動の縮小が選択されている。日本では、値上げは万策尽きた場合の最後の手段と考えられているのである。
なぜそうなのか、理由はよく分からない。ただ、当初の理由が何であれ、「値上げは特別な現象」という感覚がいったん社会に定着すれば、企業は値上げをしにくくなるので、値上げはさらに特別な現象になる。これは動学的に自己強化的なプロセスであり、どこかで変わるという日銀の見方は根拠に乏しい。
<インフレなき予定調和のメリット>
ただ、「値上げは最後の手段」という考え方が、直ちに悪いことだとは言えない。むしろその方が、経済に必要な調整がスムーズに行われると言える可能性すらある。
例えば、ある企業が、価格転嫁も十分可能と考えて、思い切った賃上げをしたとしよう。その場合は、他の企業も人手を確保するために、大幅賃上げで対抗せざるを得ない。しかし、経済全体で労働供給が限界に達していれば、企業間で人の取り合いが起こるだけで、すべての企業が必要な人員を確保することは結局できない。残るのは、賃金と価格の上昇だけで実質賃金は変わらず、労働者にも恩恵はない。
つまり、人手不足という実体的な不均衡に対して、物価上昇が解決をもたらすわけではないのである。必要な調整は、生産性の引き上げや、相対的に収益が上がりにくい企業や業務の淘汰であり、その過程で物価全般の上昇を伴うかどうかは一概には言えないし、物価上昇を伴う方が良いと考えるべき理由もない。
経済がひとたび労働制約に直面すれば、その後は労働投入の増加で成長することはできない。イノベーション、新市場へのシフト、付加価値の高い製品やサービスへのシフトなどで成長するしかない。その過程で低採算の経済活動が縮小され、経済全体で労働力がより有効に活用されるようになる。これこそが、マクロの生産性が上昇するメカニズムであり、実質賃金上昇の原動力である。
繰り返すが、このメカニズムにおいて物価上昇は必要ない。むしろ、賃金を上げて、それをそっくり価格に転嫁しようとする単線的な企業行動こそ、インフレを生じさせるだけで誰にもメリットをもたらさない「合成の誤謬(こびゅう)」なのである。
しかも、賃金と物価が同時に上がり始めると、それがどこかで止まる保証はない。自動的に止まらないなら、金融引き締めで政策的に止めるしかない。これは結局、供給制約に見合うまで政策的に需要を抑制するという話にほかならない。それよりは、生産性の引き上げ、すなわち供給力の強化によって、需要が満たされ続ける方が、はるかに望ましい均衡である。
値上げのハードルが高いことは、企業をより真剣に生産性の引き上げやビジネスモデルの転換へと向かわせるので、経済成長を促進する。人手不足でもインフレにならないという現象は、経済の発展に必要な調整に向かって、企業が予定調和的に行動していることの表れ、とポジティブに見ることが可能なのである。
<よく分かっていない低インフレのコスト>
ただし、以上の議論で触れていない論点がある。それは、低インフレのコストである。仮にそれが大きいなら、初期条件が低インフレの場合は、価格転嫁に慎重な企業行動が必ずしも望ましいとは言えない。低インフレにコストが伴いうる理由を2つ挙げよう。
第1に、低インフレひいては低金利が常態化すると、景気後退時に金融緩和の余地が乏しい。
第2に、低インフレが、人々の値上げ許容度を著しく低下させることにつながっているとすれば、経済が本来必要とする相対価格の調整まで起こりにくくなる可能性がある。例えば、先述したバス路線の例などは、運賃を引き上げて運転手の待遇を改善し、便数を維持する方が、本来は多くの人々にとって望ましいのではないだろうか。仮に、そうした調整の起こりにくさが低インフレに起因している面があるとすれば、低インフレは経済成長にマイナスとなる。
以上、例示したような、金融緩和の「のりしろ」や、スムーズな相対価格の調整という観点からみて、低インフレが実際にどの程度大きなコストになっているのだろうか。その答えいかんで、「価格転嫁に慎重な企業行動」への最終的な評価は変わる。しかし、この問いに対する十分説得的な答えは、筆者の知る限り今のところまだ存在しない。
最近は欧州でも、賃金上昇率が加速しているのにインフレ率にほとんど変化がない、という現象が新たなパズルとして関心を集めている。米国でも、インフレ率は2%に近いとは言え、失業率が半世紀ぶりの低さである割には異例なほど落ち着いている。
理論的には低インフレには弊害があると言われながらも、データや実例の少なさもあって、それが本当にどの程度大きな弊害なのかについての強いエビデンスは得られていない。幸か不幸か、低インフレは日本固有の問題ではなくなりつつある。これが世界的な関心事項となるにつれて、さらに研究が深められていく可能性には期待が持てそうだ。
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラム向けに執筆されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*門間一夫氏は、みずほ総合研究所のエグゼクティブエコノミスト。1981年に東京大学経済学部を卒業後、日本銀行に入行。86年に米ウォートンビジネススクール留学。調査統計局長、企画局長を経て、12年に日銀理事(13年3月まで金融政策担当、以降、国際担当)を歴任。16年に日銀を退職し現職。
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編集:下郡美紀

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