「1968」(上巻) 小熊英二 著 | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

「1968」(上巻) 小熊英二 著

 勝間さんが人気のようですね。本は読んだことないんだけど、テレビや新聞の発言読んでる限り、「住宅ローンの問題」とか「女性の長時間労働」とか「社会保障の不備」とか「保育所の不備」で、私もいつも考えていることとあんまり変わらないし、専門の経済のところでもがんばって欲しいな。

 宮本太郎先生との対談では、宮本先生が絶妙に指導していくかんじがおもしろかったかな。ちと抜粋。

 http://mainichi.jp/select/biz/katsuma/k-info/2009/06/post-31.html

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勝間 東京都杉並区の土曜寺子屋は地域の人が運営しています。

宮本 ただ、余剰になった人がすんなり地域に入っていけるかというと、なかなかうまくいっていない部分もあって、堺屋太一さんが以前、「年金兼業型労働」といって、年金である程度経済的なベースを確保しながら、少ない謝礼で地域で活躍できるような人が出てくることを想定して、団塊世代がリタイアしたらむしろ地域が活性化するとしていたのですが、必ずしもうまくいっていません。

宮本 同時に、終身雇用企業の中にいた男性稼ぎ主が、地域社会に入る難しさがあります。千葉県我孫子市の 前市長が高齢者のNPOを作ろうとしてミーティングを持ったのですが、みんな地味な仕事をやらない。幹部の選出になるとみんな「私がやる」というんですが。これまでは、「宮本さん」と言われていたのが、地域に入っていくと「(妻の)宮本さんのだんなよ」と匿名性になっちゃう。

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 認知症の先生から以前聞いたことですが、老人ホームのQOLを調べたときに、女性が中心になっているホームのほうが高い。男性が中心になるとイマイチなんだそう。なんでかな?ってことで「きっとおしゃべりができないんじゃないか」と、男性は「きっと名刺交換からしか会話に入ってないからだろう」と。「元○○会社 ○○担当」みたいな昔の役職を紙に印刷して仮の名刺を作ってみたそうです。「あーあのお仕事のご担当ですかあー、○○さん、知ってますー??」みたいなかんじからお話がはずむんでしょうね。QOLが改善したそうな。その話を聞いて「男の人って大変だなー。ちょっとかわいそうだなあ」と思ったことがあります。

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宮本 システム改革をしなくてはいけない局面ですが、短期的に一番受けるやり方は、国民の間にある疑心暗鬼、不信感をあおり立てる政治なんですね。正規の人に対する非正規の人たちの「特権で守られている」という思いや、逆に、正規の人たちの非正規の人たちに対する「働く気があるのか」という疑念。後者は実際、政務官から発言があって陳謝しましたが、インターネット上では支持の声が出ていた。疑心暗鬼をあおり立てる政治家の言説は、短期的には一番受ける。でもこれは二流の政治であって、丸山真男の言葉でいう「引き下げデモクラシー」です。

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 勝間さんは「パンがなければ、ケーキを食べればよいのよー、なんならステーキでもよくってよー」みたいなイメージなので(→てきとーな印象で、すいません)、その心配はなかろうか、と。

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宮本 みんながみんな高効率のエースストライカーになるんじゃなくて、地域を守るディフェンダーがいて、そこをある程度、公的な資金が支えていたりする。米国のように「小さな政府、大きな監獄」では困るわけですね。米国には200万人ぐらいの収監者がいて、そこに投入されているコストはすごいもの。日本はまだ9万人ぐらい。多少非効率な部分があっても、ディフェンダーとして地域社会のニーズに応える雇用をつくりだすことが大事です。終身雇用に代えて、働く場を社会全体で守っていくかたちが必要なのです。
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 司法管理下700万人だったかな。「パターナリズム」だけで、脊髄反射する人もいるようですが、自由なアメリカを一番最後で支えているのは、「監獄」という「過剰な(結果的な)パターナリズム」なわけで、社会保障よりも随分高くつくわけです。衣食住の全部養うわけだから。「治安のためのセキュリティ」という「安心・安全」にお金を払うか、「セーフティネット」という「安心・安全」にお金を払うかということなんですね。軸足をどっちにおいてバランスをとるのかということなんです。
 よく行く図書館に地域のNPOが作っている小さな冊子があるんですが、眺めてみていると以下のようなことがすべてボランティア募集なんですね。有償でもわずか。「障害のある小学生を毎朝学校に送ってくれる人を探しています」とか。「毎週日曜日の数時間、足の不自由な20代の女性の外出を手伝ってくれる人を募集しています」とか。「障害者だけでケーキ屋をやっています。スーパーに納品するため毎週水曜日の夕方だけ手伝ってくれる人を募集しています」とか。支えている人の雇用を支えるわけでしょう? こういうのにはほんとに、まずはお金を使ったらいいんじゃないかなあと思います。やっと「社会」に目覚めたやる気のある団塊おじちゃんたちも「ボランティア」じゃなかったら、文句は言えないんじゃない?そこで「安すぎるー!」と文句言ってくれるならウェルカムですし。

 

 団塊達は数は多いので、無視するわけにもいかないので、「マスコミに居残る団塊世代を理解しよう」という目的でとりあえず上巻読んでみた。

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景/小熊 英二

 丸山眞男のメモ。これに尽きるんではないでしょうかね。

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 全共闘系から「問題は七項目をのむかどうかではなくてのみ方なのだ」ということを言い出した。今から思えば、あの時が、東大紛争の大きな転換期だった。つまり、東大紛争の擬似宗教的な性格はあの頃から露わになった。のみ方がいいかどうかは心構えの問題であって、外部行動では判定できない。したがって大衆運動ないし、社会=政治運動の問題にはなりえない。・・・・内面性と良心にかかわることをいともたやすく大衆の目前で告白を強いる「自己批判要求」ないし「果てしなき闘争」というまったく不毛な思考形態はこうしてひろがって行った。それは、ノン・セクト・ラジカルが安田城のヘゲモニーをにぎった時期とほぼ一致している。「良心の自由」の何たるか、知らないだけでも、それは完全に戦前型を脱していない。一体、どこがニューレフトなのか!

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 安田城(笑)。戦国武将のほうが戦略だけみると、かなりマシではないかと。催涙水攻撃に何で対応するのかなあと思っていたら「レモンかじる」って・・。そしてそのヘボ知識「継承」されてるし。いかん笑ってしまった。羽田逆走も笑ってしまった。 

  後藤さんも「精神の貧困」と言われてましたけど、内容を批判するではなく、「心の持ちよう」を推測しただけで、批判した気になっている御仁もいまだいらっしゃるわけで、結局「自分探し」であろうが、「自己否定」であろうが、「自己責任」であろうが、「使命感」であろうが、「生きがい」であろうが、個人がどういう心もちでやってるかなんてどうでもいいわけです。「あなたルサンチマンでやっているんでしょう?」とか「あなた善意でやっているんでしょう?」とか「決断主義なんでしょう」とか。変わらないんですよね。それで何か言った気になっている人には、「そうなんですよーわかりましたー鋭い!(笑)、で本題ですが・・・」って言っておけばいいんじゃないかと思います。あと批判的に「『啓蒙』したいんですよね」と言われたこともあるけど、私は「ん?啓蒙するためにも本があるんじゃないですか?何がいけないのかしら?」と言ってます。「どうしても書かざる得ないんです」と「作家ぽく」「自然体」に見られたいのかな。「あーあーエセ番組で祖先の霊とか宇宙人が乗り移った自動速記みたいなかんじなのねー、やって、やってー♪」 と言ってあげるとよいかと。

 「社会運動」としての勝利ラインや妥協点がぜんぜんわかんないんだもん。

 途中から、「全共闘運動の中でも支持されたものもあったのに、なんでこうわけのわからん観念的な方向に走っていくのか」という興味だけで読んでいましたが、そういう目でみると上巻の肝は「日大闘争」と「東大闘争」の違いじゃないかな。

 日大はとくに経営陣がひどい。学生がどんどん増えて教育環境が劣悪。定員の数倍の学生が入学させられ、雇用環境が劣悪なので、優秀な教員はやめ、それで大した授業でもないのに授業料も高い。さらに学生の自治活動や運動を徹底的に弾圧。左派系の知識人の講演会や抗議活動に、こうした体育会系右派学生を使うという横暴ぶり。そういった暴力体育会系は優遇されました。さらに脱税。そりゃあ、怒っていいよ。まさに「命がけ」の闘いで、ほかの大学闘争とは違って、DQN体育会系から防衛をするために、バリケードも本格的にやらないといけなくなるわけです。つまり経営陣が「暴力」を投入したことで、象徴的な意味合いしかなかった「武器」を武器にしなくちゃいけない。さらに内ゲバもやっている余裕がない。だから理論も興味がないわけです。目の前が大変だから。日大の闘争はまさに「近代的不幸」(貧困)(抑圧)なわけで、世論も同情的なわけです。ほかの大学生も授業料の値上げで闘っているから、そのあたりは理解できたんでしょうかね。

 そして東大。

 東大はスタートから違うんだな。医学部闘争、『白い巨塔』に怒ってるわけですな。

 これも建前は経済闘争なわけです。ただ、経済闘争といっても、教授の奴隷にはなるが、その間バイトで稼げる良い時代だし、そもそも良家の子女が多いだろうから、あんまり、経済的に困ってないんだよね。広範囲には支持は得られない。それよりも、何で支持を得たかというと、そのころ問題化してきた「公害問題」がわかりやすいけど、「公害問題」を正当化してしまう研究をしなくてはならない、庶民を苦しめる圧政者側に将来立ってしまう「エリートになる自分」「御用学者になる自分」が許せない。「東大生の自分が悪い!」「東大が悪い」「東大教授を生んでしまう民主主義が悪い」→キーワード「自己否定」ということで支持を得る、と。小田実が言うように「じゃあ、東大やめればいいじゃん」(大意)なんですが。もしくは、「御用学者にならなきゃいいじゃん」なんだと思うんだけど。捨てるものが大きいから東大はやめられない。実際、東大生は大学をやめていない(日大生はけっこう大学をやめてる)。「エリート=圧政者にはなりたくない私は、いかに生きるべきか」という実存の苦しみと観念論が不幸なマリアージュ。幼稚な人たちが幼稚な理論をふりまわすことに。

 下巻は、結果的に安田城が目立ったので、そういうやり方が、蔓延した。貧乏で下層で苦労している他大生は悩まなくてよいことなのにね~、という流れなのかなあ。

 暴力の象徴くらいでしかなかったものが、実戦用に変質したのが日大経営陣の方法論の結果であり、「エリートとして加害者意識」をもった原罪集団の東大理念空中戦が連合赤軍につながる?というのが、この本の前半の史観から感じだことです。“ほんとは「近代的不幸」なんですが、そこで踏みとどまれなかったのはなぜか”というふうに読むとよいのかしら。下巻読んだら、感想書くかも。