岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

この姿を毎日眺めている人たちにとっては… / この山容から思い出される山行などは…

2009-12-26 04:32:28 | Weblog
 (今日の写真は、岩木山の北東面である。「貝沢」付近から見たものである。
…切れ込んだ深い谷、頂上に向けて複雑に、しかも起伏をなして駆け上がっている山稜、ここに見られるのは「なだらかで秀麗」な山容ではない。まさに「荒々しい」のである。 荒ぶる益荒男であろうか。「山全体」に内から湧き起こるエネルギーが満ちあふれている。これが「山」というものだろう。
 五所川原市が、近年力を入れている「立ち佞武多」は大きさを誇る。それに合わせて年々、私にはほぼ理解出来ないような不思議な「ネーミング」をしているが、今日の写真のようなイメージで「立ち佞武多」を造り、そのイメージで命名をしたらどうだろう。
 五所川原市から見える「岩木山」はもっと急峻で屹立しているからだ。それは、まるで「遠望のマッターホルン」なのだ。)

◇◇ この姿を毎日眺めている人たちにとっては… ◇◇ 

 旧弘前市からは絶対に眺めることの出来ない「この姿」を、毎日眺めている人たちにとって「岩木山」とは一体どのようなものなのだろうか。旧弘前市からの眺めを公園の本丸からのものと、とりあえずしよう。「とりあえず」ということは「公園入場有料化」が施行されて、「自由に本丸に立ち入ることが出来なくなった」ことからである。
 ここ数年、私は「本丸」から「岩木山」を眺めたことはない。「本丸から眺められる岩木山」は私にとっては、「過去の話し」で、遠い記憶の彼方にひっそりと存在している。
 その「記憶」を辿って思い返してみると、それは「たおやかに裾野を広げた優しい山」であり、「手弱女ぶりを十分に発揮している」ものであり、それでいて、「おおらかな母性に満ちあふれた」山容なのである。「弟、厨子王をいたわる安寿の装い」であり、総じて、それは「癒しの山」であるだろう。

 だが、それに引き替え、今日の写真の岩木山は何なのだろう。「癒し」は確かにある。だがそれは、突き放しながら「鼓舞」するという面を見せるのだ。そこには「叱咤激励」という響きがあるのだ。
 落ち込んだり、体の具合が悪い時とか、または悲しい時には「こうしてはいられない」という「奮い立つ勇気」を与えてくれるものだろう。「勇気」とは「愛の形を変えたもの」である。
 「勇気」を与えてくれるものは「大きく深い、しかも普遍的な愛の持ち主」である。この山容全体がまた「愛」に包まれたものなのだ。この姿もまた「癒しの山」なのである。それにしても、この「癒し方」の違いは何なのだろう。
 それにしても、何という荒々しさであり、益荒男ぶりであろうか。この山容を眺めて暮らしてきた人々は、ここに「鬼」が棲むとしてきた。そして、その鬼が「なぐさみごと」として「相撲」をとる「土俵」まで与えて「鬼の土俵」という地名を岩木山に定着させたのである。
 「殺人鬼」という言葉がある。「鬼のような人」という言い方もある。この場合、「鬼」は「魔物、恐ろしいもの」や「異界のもの」、そして「人でなし」を意味している。だが、この「岩木山の風姿」を見てきた人が「鬼」としたものは「人に恵みを与える」ものであった。この「鬼」は「用水堰」まで造ってくれる優しい鬼だったのだ。水を恵んでくれる「水神」の化身だったのだ。「水」は方円の器に従い、千変万化する。激流となれば、それは「鬼」だろう。

◇◇ この山容から思い出される山行などは… ◇◇

 私は、この写真に見えるすべての山稜と谷を、もちろん残雪期を含めてだが登っている。左から順に説明しよう。一番左の稜線は弥生登山道尾根である。その尾根に沿った沢が大黒沢だ。大黒沢左岸稜線は巌鬼山の北東にある1457mピークから駆け下りる細い稜線で、その右岸には大黒沢の広い「カール」状地形が広がっており、残雪期には多くのスキーヤーで賑わう場所だ。
 その右下に広がっている広くて急峻な斜面は「水無沢」の源頭である。ここは古い爆裂火口で、冬季、残雪期を含めて雪崩が多い。
 その左岸の「だだっ広い」尾根には古い登山道がある。弥生登山道が出来る前からのものだ。これはこの尾根の左岸枝尾根(六人沢や小杉沢を形成している尾根)からの道と合流して、赤倉登山道の「大開」付近で、赤倉登山道と合流していたのである。
 今でも、雪消え間もない頃には「踏み跡」を辿ることは出来るが「廃道」である。その尾根の左岸谷は「八ツ森沢」だ。ほぼ写真の中央に見える部分だ。そして、その左岸尾根が赤倉登山道尾根である。
 赤倉の沢も詰めたことがある。沢そのものの登りは大したことはないが、最後の部分、つまり源頭の「キレット」に辿り着くことは出来なかった。
 夏場は落石、冬は雪崩、残雪期は雪崩と落石で登ることは「不可能」であった。だが、残雪期の早朝、雪面が凍結した状態の中で、赤倉尾根の左岸の端を辿って「赤倉御殿」に出たことはあった。
 赤倉沢源頭付近の左岸は、ほぼ「垂直の壁」である。写真で示すと、中央より少し右に見える赤倉登山道尾根の対岸ということになる。ここは、夏冬問わず四六時中、「土石」の崩落があり、とても、登られるものではない。だが、尾根には「修験者の道」がある。今もある。
 だが、「あるだけ」であって、登りも降りるのも「至難」である。「藪こぎ」に耐える体力と「簡単な登攀技術」がなければ無理だろう。それに、ものすごく迷いやすい。登下行が簡単であるならば、それは「修行」にならない。何たって「山伏」たちの修験の道だからである。ここを辿るには「鉈目」や「鋸目」の意味に習熟しておく必要がある。それが、分かると「迷うこと」も少なくなるのであろう。

 残雪期や冬季には、赤倉沢の左岸尾根を辿って、1396mピークを目指すことが出来る。
 この「垂直な壁」を持つ稜線までは比較的坦々とした登りなのだが、この「」稜線の下部辺りから斜度が急激にきつくなる。その上、吹きさらしなので「雪面」が硬く、「ワカン」の爪が利かない。
 その日、私は「ピッケルとワカン」といういでたちだった。いくらか登り始めて、自分の「装備」の不備を思い知らされたのだ。雪面が硬いということは「風が強く雪が溜まらない」ということである。氷化しているのだ。
 「ワカン」は使えず、吹き付ける強風にあおれられ、身を支えるのは、ピッケルだけという状態が続いた。「風」に気圧(けお)されてひっくり返ると「垂直の壁」を真っ逆さまに落ちることになる。「アイゼン」を持ってこなかった身を嘆いてもおさまらない。下山するのは「後ろ向き」になることだからもっと危険だ。それも出来ない。逃げることが出来ないのだ。
 登り続けるしかない。それから、200mほどの距離を、1時間以上かけて、まさに這うようにして登るしかなかったのであったのだ。…

・NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」が17日で1年が終わった(7)は明日掲載します。

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