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自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判 (暴力論叢書 3) 単行本 – 2008/8/6
- 本の長さ283ページ
- 言語日本語
- 出版社月曜社
- 発売日2008/8/6
- ISBN-104901477420
- ISBN-13978-4901477420
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登録情報
- 出版社 : 月曜社 (2008/8/6)
- 発売日 : 2008/8/6
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 283ページ
- ISBN-10 : 4901477420
- ISBN-13 : 978-4901477420
- Amazon 売れ筋ランキング: - 477,562位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 824位倫理学
- - 1,017位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 2,956位倫理学入門
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2019年4月6日に日本でレビュー済み
「A as well as B」はAとBが事実上同格なのだから、「語り手は三人称代名詞で、直接に呼びかけることで」と同格で訳しても誤訳とは思えない。上記のレビューは直訳にこだわりすぎなのではないか。
2008年9月21日に日本でレビュー済み
自己への硬直こそが暴力の源泉である。硬直させる暴力、硬直した「私」による他者への暴力。
これが本書の力強く一貫したテーマです。「主体」が解体され、分裂した生を生きる(生きざるを得ない)現代の私たちには「責任」や「倫理」はないのかという問題意識を、「主体」復活ではなく、ばらばらだからこそ、すべてを統括する「私」などないからこそ、そこに「倫理」と「責任」が生まれるのだと論じています。自己にも他者にも自己同一性と「責任」を求める「倫理的暴力」(毎日の事件事故報道をごらんください)を一刀両断するすばらしい主体化論です。
丁寧な論旨にもかかわらず、いたずらに難解ではない、スムーズな展開です。解説の佐藤さんもわかりやすい。呼びかけによる主体化というアルチュセール、フーコー(初期)に依拠しつつ、ラプランシュ(精神分析)とレヴィナス(他者論)を節合し、晩年のフーコーを読み解く手法に感動です。要するに、わたしたちは呼びかけのすべてを内面化するわけではないし、内面化したものすべてを統合する「私」があるわけでもない。その二重のずれ=「私には説明しつくせない、どこからか来た/やって来る、私ならざる私」を受け止めることが「倫理」「責任」であり、それによって「私」は常に変容し、呼びかける権力との批判的距離をつくりだす。。。
最後に。本書によって欧米でのラプランシュの重要性に新たな照明があたり、いまだ一冊しか翻訳されていない状況(しかも共著)が改善されることを切に望みます。
これが本書の力強く一貫したテーマです。「主体」が解体され、分裂した生を生きる(生きざるを得ない)現代の私たちには「責任」や「倫理」はないのかという問題意識を、「主体」復活ではなく、ばらばらだからこそ、すべてを統括する「私」などないからこそ、そこに「倫理」と「責任」が生まれるのだと論じています。自己にも他者にも自己同一性と「責任」を求める「倫理的暴力」(毎日の事件事故報道をごらんください)を一刀両断するすばらしい主体化論です。
丁寧な論旨にもかかわらず、いたずらに難解ではない、スムーズな展開です。解説の佐藤さんもわかりやすい。呼びかけによる主体化というアルチュセール、フーコー(初期)に依拠しつつ、ラプランシュ(精神分析)とレヴィナス(他者論)を節合し、晩年のフーコーを読み解く手法に感動です。要するに、わたしたちは呼びかけのすべてを内面化するわけではないし、内面化したものすべてを統合する「私」があるわけでもない。その二重のずれ=「私には説明しつくせない、どこからか来た/やって来る、私ならざる私」を受け止めることが「倫理」「責任」であり、それによって「私」は常に変容し、呼びかける権力との批判的距離をつくりだす。。。
最後に。本書によって欧米でのラプランシュの重要性に新たな照明があたり、いまだ一冊しか翻訳されていない状況(しかも共著)が改善されることを切に望みます。
2016年10月15日に日本でレビュー済み
訳文について一言苦言を呈したくて書いています。
当初は日本語訳で主に読み進めようと考えていましたが、第二章の半ばあたりから、日本語のみで読んでも意味の分からない文章が頻出するようになり、結局原文で読み進めることにしました。
例えば、「語り手は三人称代名詞で、直接に呼びかけることでオドラデクを間接的に人間化している」という部分、三人称代名詞で直接に呼びかけるってどういうこと??とわけが分かりません。
原文では”The narrator indirectly humanizes Odoradek through the third-person pronoun as well as through direct address”であり、「直接的な呼びかけによってと同様に、三人称代名詞によって語り手は間接的にオドラデクを人間化している」とでも訳せると思います。
訳文を作るとき、文法のレベルで訳せているかどうかとはまた別に、文脈のレベルで整合しているかどうかをセルフチェックしないのだろうか、また共訳者や出版社の人間は理解できる訳文になっているかチェックしないのだろうかと不思議に思います。
当初は日本語訳で主に読み進めようと考えていましたが、第二章の半ばあたりから、日本語のみで読んでも意味の分からない文章が頻出するようになり、結局原文で読み進めることにしました。
例えば、「語り手は三人称代名詞で、直接に呼びかけることでオドラデクを間接的に人間化している」という部分、三人称代名詞で直接に呼びかけるってどういうこと??とわけが分かりません。
原文では”The narrator indirectly humanizes Odoradek through the third-person pronoun as well as through direct address”であり、「直接的な呼びかけによってと同様に、三人称代名詞によって語り手は間接的にオドラデクを人間化している」とでも訳せると思います。
訳文を作るとき、文法のレベルで訳せているかどうかとはまた別に、文脈のレベルで整合しているかどうかをセルフチェックしないのだろうか、また共訳者や出版社の人間は理解できる訳文になっているかチェックしないのだろうかと不思議に思います。