浅田真央ちゃんの記事で感動したコラムを見つけたので掲載しますきゃー



『5歳でスケート靴を履いた。2歳上の姉、舞さん(21)と一緒にリンクへ通った。舞さんは「2人で『わたしの方がうまいよ』と言い合ってましたね」と笑う。駆け出し時代は年齢差もあり、姉に軍配があがった。それでも浅田は与えられた課題を必死にクリアしては喜んでいた。

 浅田の小中時代を指導した山田満知子コーチは「すべてを持っている子」と、褒めたたえた。小6で出場した全日本選手権で3連続3回転ジャンプを跳んだ。関係者は大騒ぎ。「天才」の称号がついて回った。気が付けば、舞さんを簡単に置いていってしまった。

 待望の五輪シーズン。皮肉にも人生最大のスランプが浅田を襲った。昨年10月のグランプリ(GP)シリーズ、フランス杯で2位、続くロシア杯では自身最悪の5位に沈んだ。武器のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)が安定せず、得点が伸ばせなかった。

 「(3回転半を)百発百中にします。プログラムは変えません。練習してきたプログラムをまだ完璧(かんぺき)に滑っていないので」。ここでも自分自身に対して負けず嫌いだった。途中であきらめる自分は想像できないし、許せなかった。

 五輪行きのチケットを手にするには、昨年末の全日本選手権で勝つ以外、道はなくなっていた。毎日朝から晩まで、愛知・中京大にこもった。多い日は100本超のジャンプを跳んだ。顔を見るのは毎日同じコーチ、スタッフばかり。19歳の息は詰まっていた。

 救ったのは家族とスケートだった。

 昨年12月初め、浅田は舞さんの前で泣いた。「もう跳べない」と、だだっ子のように大粒の涙を流した。中京大の更衣室。舞さんも選手だ。浅田の肩の重さが痛いほど伝わってきた。

 舞さんは「これまで何万回も跳んできて、一日で跳べなくなるなんて、ないよね」と励ました。一緒に中華料理を食べ、買い物に行った。浅田が誘い、赤いひも状のネックレスをおそろいで買った。浅田はこのネックレスを付けて全日本を制し、五輪出場を決めた。

 全日本に来られなかったタラソワ・コーチからもメールが届いた。「わたしは真央の力を知っています。真央が真央でいられることを祈っています」。浅田は「すごくうれしかった」とすぐに返信した。

 中京大のリンクで、練習にやってくる子供たちと一緒に滑ることもした。浅田は笑顔で氷上を舞った。ジャンプもスピンも新しいことに挑戦することが大好きで、氷の上にいるだけで楽しかった時代があった。浅田の関係者は「あの時間で滑る楽しさを思いだしたのかもしれない」と笑う。

 4年前。トリノ五輪は年齢制限で出場がかなわなかった。誕生日が87日規定に足りなかった。最初からわかっていた。「バンクーバーに出る」と誓って練習を積んでいた。母の匡子さん(47)に「何で早く生んでくれなかったの」と冗談は言っても、「トリノに出ていたらなぁ」と想像したことは一度もない。

 初めての大舞台はほろ苦さが残った。誰もが魅了される笑顔は弾けなかった。「五輪は五輪」だという。笑顔も金メダルも世界選手権では取り戻せない。「また出たい」-。4年後は23歳。忘れものを取りに必ず戻ってくる。(榊輝朗)』



TVでは強くリンとした真央ちゃんのイメージだけど、家族の前では「弱音」も言っている。

絶対的に自分を信じてくれて、励ましてくれる家族四つ葉

真央ちゃんの強さの1つだと思いますキャッ☆


まだ昨日の真央ちゃんの演技見てないから、ちゃんと動画で見たいです(`・ω・´)



スケート