命のカルテ | 赤い光が灯るまで in 奄美大島

命のカルテ

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災害3日目に当たる昨日の朝、大きな問題なく当直を乗り越え、
私の連続勤務25時間目にさしかかった時、初めて被災地の医療情報が入りました。

院長『住用町(最も被害が深刻と言われる町)は、医師が野崎先生1人のようです。
   この2日間2時間しか寝てないとの連絡が入りました。
   2人くらい医師を派遣してくれないかとの要請です。
   行ける先生はいますか?』

『行きます!』HOT先生、Natu先生、自分の3人が同時に答えました。

住用の被害が大きかったことは知っていましたが、
現場の医師が1人とは知りませんでした。
同じ島にいながらも、交通、通信の途絶えた地域から正確な情報は
伝わっていませんでした。

1時間程度で必要最低限の医療資機材を集め、医師3人、看護師1人、
ドライバー1人のチームで現地に向かいました。

住用にある体験交流館(住用地区最大の避難場所)に着き、
真っ先に野崎先生と合流しました。
我々の到着より少し前には、赤十字から医師1人、看護師3人、
事務3人が到着していました。

野崎先生『連絡が取れず、状況が分からない集落があるんです。
     グループに分かれて集落の人々を診て来てくれませんか。』

HOT先生、Natu先生、赤十字のDrに、それぞれ看護師、
役所からのガイドで3チームを編成し、集落の訪問をスタートしました。

私は体験交流館に残り、2日間を2時間の睡眠で戦っている野崎先生には、
大島郡医師会病院までドライバーに送ってもらい、休息をとってもらうよう
お願いしました。
しかし、野崎先生は、目の下にクマをつくり、憔悴しきりながらも、
現場を離れて休息を取ることを中々承諾してくれませんでした。

野崎先生が何とか承諾したものの、看護師である野崎先生の奥様は、
同じくまともな休息を取っていないにも関わらず現場に残るとおっしゃり、
野崎先生が休息から戻るまでのあいだ、100人の被災者1人1人に声をかけ、
怪我、体調不良、持参薬があるかの確認を共に行ないました。

夕方までに、急性心不全、狭心発作、脳出血疑い、発作性心房細動、
多発肋骨骨折、COPD急性増悪の6人の患者を名瀬の医療機関へ搬送させ、
数百人の安否確認、数十人の診療を終えることができました。

全集落の内、半分の集落は翌日訪問する計画を立て、
19時前には、医療チームを一旦休息に返す方針となり、
体験交流館には当直を立候補した私と、薬剤師1名、薬局事務1名、
看護師1名、保健師2名を残し、他の全医療者が撤収しました。

撤収組の中でも、最後まで現場を離れなかったのは、5時間の休息で現場に復帰した
野崎先生と、コーヒーを飲みながらひたすら働き続ける野崎先生の奥様でした。
結局、21時頃まで患者の定期薬を処方し続け、ほぼ全患者の定期薬を
処方しきったところで近くの民家へ休息に移動されました。

昨晩の急病者は軽症の数名に留まりましたが、畳に毛布という環境での睡眠は
非常に浅いもので、何度も雨の音、突風の音で目を覚まし、熟眠感は0でした。
被災者の方達も同じく、この環境の中、3日目の不安な夜を越えました。

大きな問題なく本朝を迎えましたが、自分の連続勤務は48時間に達しており、
疲れはジリジリと蓄積していました。

朝10時から、医療チームに消防代表、自衛隊代表、役所の代表を交えて、
本日の医療活動についての会議が行なわれました。

本日は、7つの集落をまわることとなっていましたが、昨日の予定とは
いくつかの変更がありました。

市(いち)、戸玉(とだま)の集落は道の寸断により陸路でのアプローチが
不可能だったため、海路でのアプローチを検討していましたが、
天候が悪過ぎて舟が出せない結論に達していました。
結局のところ、自衛隊のヘリコプターにより医療チームが入ることになり、
HOT先生が率いる1チームがヘリに乗ることとなりました。

残りの5集落は住人が多かったのですが、本日、飛び入りで現地入りした
南部の保養院と、本日から予定通り現地入りした徳之島徳洲会、私の所属する
大島郡医師会病院と、日赤で混成チームを作り、計4班で集落をまわることと
なりました。

私の率いるチームは比較的被害の少なかった美里集落をまわることとなり、
47世帯を一軒一軒まわり、安否と傷病者の確認を行ないました。

昨日とは違い、本日はどの集落にも重症患者が出ず、緊急搬送は0で
夜までを乗り切りました。
また、夕方からは職員の健康チェックを初めて行ない、数十名の診察を
することができました。

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            ↑診療のために私たちが運び入れた物資

災害4日目の今日、医療チームにより1600人を抱える住用地区の全集落の訪問を終え、
重症患者の搬送をやりきっただけでも上出来だったと思います。
しかし、被災者は、24時間体制の医療を受け、さらには持って逃げれなかった
定期薬が行き渡りました。

この規模の災害で、被災者が定期薬の処方までしっかり受けることができたのは、
日本でもおそらく前例のないことでしょう。
それらを実現できたのは3つの要素によるものでした。

1つ目は、元々無医村だった住用町に野崎先生は唯一の医師として診療所を
開かれており、6年間、1600人の町人の健康を1人で守り続けたため、
被災者の多くを元々把握していたということ。
野崎先生のカルテには、多くの患者を把握するために、一人一人の顔写真が
添付されていました。

2つ目は、野崎先生の診療所のとなりに開業する、住用薬局が災害3日目には
薬局としての機能を果たせる十分な薬剤を体験交流館まで搬入し、
薬剤師を含む職員が徹夜で調剤を手伝ったということ。

3つ目は、野崎先生がノートパソコンの電子カルテを避難所に持って来ていた
ことでした。

これにより、町中の患者の正確な処方内容を把握することができ、
薬を持って逃げられなかった多くの患者に定期薬を処方することができました。

ここで、伝えなければいけないことは、野崎先生、住用薬局職員自体が
被災者であるということです。

野崎先生の開業されている住用診療所と隣の住用薬局は、マスコミで繰り返し
放送された車がプカプカと広場に浮いている住用支所からわずか200mの場所。
住用地区に多量の土砂が流れ込んだあの日、普通に仕事をしていた住用診療所
には、外から『逃げろー!!』という大きな声が響き、あっというまに土砂が
診療所、薬局内に流れ込み、数十分で頭上の高さまで水浸しとなったそうです。

1年前に買った車が沈み、診療所、自宅が壊滅的な状態になるのを目の当たりに
しながら、銀行通帳も、印鑑も持たず、靴も履かず命かながら野崎先生が
とっさに持ち出したものが、この電子カルテだったのです。

そこからは、睡眠を取った2時間を除き、2日もの間、電子カルテをもとに、
唯一の医師として孤立した1600人を守り続けました。

果たして自分だったら、他の貴重品も持たず、カルテを持って逃げたでしょうか。
私は今まで、優秀な医師というものを沢山見て来ましたが、
“この先生のようになりたい”と、本気で思った医師はいませんでした。

でも、今は野崎先生のようになりたいと本気で思います。
これほど患者を想う医師に今まで出会ったことがありません。
正に医師の鏡だと、そう思います。

一番上の写真は左から、野崎先生、奥様、そして、
徹夜で調剤を続けた薬剤師の波多さんです。

私の連続勤務は、58時間でひとまずの休息をいただくことになり、
今夜、久々に家に戻りました。

明日は朝から再び現地に入ります。
被災者も、救助者も、今が頑張るべき時なのだと思います。

ブログを見て下さっている奄美の方々、ちばりましょうね。
昔からしてきたように、皆で手を差し伸べ合って復興しましょう。
固い絆で結ばれた奄美ならできますよ。絶対。
皆、自分にできることを探しましょうね。

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              ↑仮設薬局です。