たとえば文才について


photo By Jason Tavares

ぼくは文才がない。
山田詠美の"ぼくは勉強ができない"かのように言ってみる。

とあるエントリーを読んだ。

たとえば文才について – Singer Song iPhone

この記事を皮切りに多くのブロガーが
"文才"について語り始めた。

ここ最近のブロガー界のトレンドは"文才"らしい。

いろいろと思うことがあったので、
雑記ついでに書いてみたいと思う。

文才がないからブログを書けない

最近TwitterのTLで文才がないからブログを書くのに躊躇するなどというTweetを目にすることが何度かありました。
私はそれを見ててどうも違和感を感じてしまいました。

たとえば文才について – Singer Song iPhone

そもそもの発端はこの文章。

ブログという言葉や存在は
もはや一般用語になった。

10年ほど前にはブログという名前はあまりなくて、
芸能人が書いたブログがキッカケに"ブログ"というものが
世に広まった。

ブログといっても、
いろんなブログがある。

芸能人をはじめ、
経営者、ミュージシャン、
主婦、そしてブログを書くことを生業にしている人まで。

いろんな人が今やブログをしています。

なぜブログには文才がなくてはいけないのか

さて、この問題です。

なぜ文才がなくてはいけないのでしょうか。

ブログを書く権利=文才を持っている
という方程式がこの世にあるのでしょうか。

これ、
勝手ながら
予想するに、
偏見だと思うんです。

自分が読むブログっていうのは
面白いと思うから読むわけで。

ブログを書いたことがない人は
何をお手本にしていいかわからないけど、
"ブログ=面白いもの、文章がきちんとしたもの"という
方程式を勝手に作っているんじゃないかな、と。

文才が必要ない理由

上にも書いた通り、
ブログっていうものに
偏見があるから書くことに
躊躇してしまうんだと思うのです。


ちょっと視点を変えると、
twitterでつぶやくのに
何か必要なんでしょうか?

つぶやく時には何か面白いことを
つぶやかなくてはいけないでしょうか。

いや、そうじゃないはず。

twitterで自由なことをつぶやいてますよね?

ブログも同じだと思います。


言葉を載せるツールは違えど、
そこに載せる言葉は自由なはず。

自由じゃなきゃ
つぶやくのも、
ブログを書くのも面白くない。

ブログを書いてどうしたいか、がポイント

そもそも、ブログを書いてどうしたいのか?

  • たくさんの人に見てもらいたい
    • それならば、読みやすい文章を心がける
  • 自分の日記にしたい
    • それならば、後から見返してわかるように書く
  • 自分の思いを伝えたい
    • それならば、自分の感情を、思いの丈を表せばいい

上記に挙げたように、目的によって書き方も変わるはず。

でも、そこに文才、才能の字も出てこない。

ブログを書くにあたって何の才能も能力もいらないはずだ。

思いがあるからこそ惹き寄せられる

そもそも自分は文才のある人の文章だから
その人の文章を見たい、というわけではない。

その人の言葉や思いを読みたいのだ。

惹かれるのはその人の表す思い。


上手な文章を読みたければ、
教科書や小説を読む。

しかし、教科書や小説にはないものがブログやtwitterにはある。

そこにはありふれた生活や日常の中にある
リアルな希望や喜び、悲しみなどの感情がある。

人の胸を打つのは、
文才が書く文章だけではないはずだと思う。


僕は何気ない日常にある思いを読みたい。

不器用ながらも綴る言葉は伝わるものがあるはずだ。

思い出して欲しい。
子供の書く手紙は
文才がなくとも心に響くことがある。

文才がなくともおじけづくことなんてないはずなんだ。


だから、
飾らない言葉で、あなたの言葉で、
あなたの日常の中にある思いを読ませて欲しい、と思うのだ。


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