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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-04-28

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・「日本人はなんでも道にしちゃうんだよなぁ」
 という言い方はずいぶん聞きました。
 剣道、柔道、華道、書道、茶道、
 場合によっては、野球道やらサッカー道もありそうです。
 ま、昔ながらの言い方をすれば、
 指導者が弟子たちに、定まった方法を強制しようとする、
 そういうことに反発したい気分が
 「なんでも道にしちゃう」という嘆きになったのでしょう。
 もっと自由に、もっとその人の個性を生かした方法で、
 という近代的な考えがその批判にはあったのでしょう。
 みんなが自由に、それぞれ個性的にやっていたら、
 たしかに「道」はできにくいですね。

 ぼくも「道」と名の付くものはちょっと面倒な気がして、
 なるべく近寄らないようにしようと思っていました。
  
 ところが、ですね。
 剣道だの茶道だのという概念の「道」のほうじゃなくて、
 現実の、人やらクルマやらが通行するほうの
 具体的な「道」のことを考えていて、
 「道って、なんて都合のいいものなのだろう」と
 ちょっと感心してしまったのでした。
 たとえばですね、関越道という高速道路があります。
 この「道」には、同じこの道を何百回も走ってきた人も、
 昨日免許をとったばかりの初心者もいます。
 最低限の規則さえ守っていれば、関越道は、
 どこのだれでも走っていいことになっています。
 そして案内どおりに走っていれば「目的地」に着きます。
 故障したクルマや、途中で事故を起こした運転者以外は、
 ベテランもシロウトも、みんな終点の新潟に到着します。
 どうしてかといえば、「道」だからなんですよねー。
 これは、すげぇことだぞ、と思ったんです。
 山の中で迷って道から外れたら命の危険もありますが、
 道がはっきり見えているところでは、道の上にさえいたら、
 だれでもが、ある場所にまで行って帰って来られるんです。
 だれも自由だの個性だの言う必要もないんですよね。
 「そこに行きたいなら、この道で行けるよ」ということ。
 「なんでも道にしちゃう」ことの目的、これだったのか。
 と、急に「道」に興味がでてきたわたしでした。
 道を開いた先人たちへの尊敬も、当然生まれてきています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
たぶん、論語とか俳句に興味を持ったことも関係あります。


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