自己伝道の重要性 | 信仰生活は感謝と喜び!

信仰生活は感謝と喜び!

訪問ありがとうございます。統一教の信仰を持っている青年です。感謝と喜びの生活をしながら感じる内容を記した日記です。
感謝、信仰、書籍の紹介、統一教会員の拉致監禁問題、自身の祝福結婚の証し、統一原理、文鮮明師自叙伝、など幅広く取り上げています。

伝道というと他人に対してみ言を伝える、神様とメシヤを伝えるということが伝道だと考えがちですが、一番の伝道は私自身を伝道することがより本質的な意味での伝道ではないかと思います。


伝道するためには、自分自身が伝道されなければいけない。神様から愛された分だけ、メシヤに対する確信が芽生えただけ多くの人に伝えることができますね。


私たちは日々の忙しさに追われて、自分自身を伝道することを忘れがちではないでしょうか。


最近私が感じることは、周りの人を批判したり、周りの人に要求してしまうことの自分自身の不足さです。


私たちは批判の天才なので、周りの人の足らなさを指摘したり、批判したりしてしまいます。自分自身の足りなさを棚に上げて、こうすべきなのにと思ってしまったり、何とかして分からせようと躍起になることもあるでしょう。


しかし、そこに愛がなければ裁きにこそなれ、その人を生かす言葉には成りえないと感じます。自分自身も反省させられる部分が日々沢山あります。私の話す言葉の背後に愛があるだろうかと考えさせられます。私は神の目線で相手を見つめられているのだろうかと。


結局は、相手がどうあるかではなく、それを見つめる自分自身がどうあるべきかという事が大切だと感じます。周りの環境を通して、自分の愛の足らなさを感じさせてもらっているので、謙虚に自分自身を育んでいきたいと思います。まだまだ愛の器が小さいと気づかされました。


神様から愛されている自分であるという確信を持ちつつ、目の前の人にも同じ様に見つめることが出来ればと感じます。自己伝道を通して、多くの人に愛を持って接することができるように心がけていきたいです。


たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。


たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。


たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。(Ⅰコリント13章1~3)


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P.S今晩のフジテレビすぽるとに私たちの青年部の姉妹が少しだけ特集されていました!頑張ってほしいです。