ビデオ電話なんて絶対広まるわけない、と予言してる人がいます。
それはピンチョン後継のポストモダン文学の旗手デヴィッド・フォスター・ウォレス。どうしてダメなのか? フィクションですけど、Kottkeが引用した1996年の小説『Infinite Jest』にはその理由がこう書かれています。
昔ながらの電話なら受話器の向こうで相手が自分の話に100%意識集中してるように思えるし、自分では彼女の話を100%も聞く必要がない。昔からある耳だけの会話では半分意識をあらぬ方向に逃避させ、まるでハイウェイを流し運転するみたいな催眠状態に入ることができる。
喋りながら部屋を見回してもいいし、落書きしてもいい、念入りにヒゲを剃ってもいい、上皮から死んだ皮を剥いたっていい、電話の下敷きについて俳句詠んでもいい、ストーブの上の温め物を掻き混ぜるのも自由、部屋にいる別の人間と身振り手振りや大げさな顔の表情つくって全然関係ない会話だってできる。そんなことしながらでも電話の向こうの相手には、しっかり耳をそばだててるフリができるのだ。しかもこれが後から思うと傑作なところなんだがー 自分は注意を電話の声と、その他ありとあらゆる細々としたどうでもいい逃走に散らばしてるくせに、まさか電話の向こうの相手も自分と同じように注意を散らばしてるとは夢にも思わないのである。
ビデオ通話でこの幻想は脆くも崩れた。今や電話をかける人は対面で会ってるとき同様、熱心に聞いてる顔をちょっと大げさなぐらい浮かべないとまずいことに気づいた。前は無意識につい慣れで落書きしたり、パンツのシワ直して逃避してたのに、今それをやるとこれがムチャクチャ失礼に見えるのだ。上の空で聞いてる人、自分の世界に耽ってる子どもっぽい人と取られてしまう。もっと無意識に通話中シミ探したり、鼻穴ほじるのが習慣になってた人は今やハッと目をあげると恐怖に凍りついた相手の顔がビデオ画面からこっちをまじまじと見詰めているのである。それやこれやが全部ビデオ電話ストレスの原因となった。
もっと読みたい方は以下リンク先にもっと長い引用がありますよ。
[Kottke]
Adam Frucci(原文/satomi)