yuhka-unoの日記

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他人に親切にして失敗するのが怖い日本人

Togetter - 「蜷川実花さんのツイートからわかった日本をまとめてみました」
http://togetter.com/li/52331
 
寝てる息子とバギーで出かけてたんだけど駅で階段しかなくて。15キロの息子だっこしてバギー持って階段。つーかそこのヒマそうな男子!手伝ってよ。なんでこんなに助けてくんないかなーーー??ちょっとびっくり。

上の記事のブコメ
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/52331

一般に、多くの日本人は、相手や世間から完璧な正解を求められていると考え、失敗することは許されないと思い込む傾向があると言われている。こうした日本人の心理は、一旦社会のレールから外れると復帰しにくいという、福祉問題の話として語られることが多いが、何も社会のレールに限った話ではなく、上の記事で挙げたような、赤ちゃんを抱いてベビーカーを持って階段を上がる母親を助けるかといった、些細な日常の親切においてもそうらしい。
こういう母親を手助けするのに躊躇する心理は、私にもわかる気がする。「もし余計なおせっかいで迷惑だったらどうしよう」とか、「もし上手く助けられなくて、かえって手を煩わせてしまったらどうしよう」とか、そういうことを考えてしまう自分がいるのだ。案の定、ブコメも「もし親切にして〜だったら」のオンパレードである。もちろん、助けないで通り過ぎたとしても、今度は「何で手助けできなかったんだろう」と後悔する気持ちになるのだが、親切にする相手が友人知人ならともかく、二度と会うこともないであろう赤の他人となると、親切にして失敗したときの事を考えると、何もしないで通り過ぎた方が気が楽だという結論になるのだろう。皆失敗するのが怖いのだ。
 
この手の「子連れの母親を助けるか」「お年寄りに席を譲るか」といった議論においては、「そりゃ失敗することもあるが、この手の事案は失敗するより成功することのほうが確率が高いので、失敗など気にせずどんどん行動するのが良い」というのがシンプルな結論だと思われるが、大抵はそういう結論には至らず、皆100か0かで議論する。つまり、失敗する可能性が1%でもあることはしない、100%でないと安心して行動を起こせない、というわけだ。
サッカー日本代表監督のオシム氏もこう言っている。

 日本では、長年にわたって失敗に対し罰を与えるような教育システムになっているように思える。そういう社会性が、ある意味、サッカーでは悪い方向に作用する。
 「失敗して罰を受けるならば何もトライしたくない」という深層心理が消極的な姿勢につながるのである。「日本人には責任感がない」とは決して言えない。日本人のメンタリティの問題は「責任感がない」のではなく、その責任感に自分で限界を作ってしまうことではないか。自分で勝手に仕事の範疇を決めてしまい、それを達成すると、「後は自分の責任ではない」と考える。(p.93-94)
http://t104.blog72.fc2.com/?m&no=87

 
ところで、ブコメでは「手助けする勇気が持てない」というのを通り越して、蜷川実花氏を叩く内容のコメントが多く見られるのが気になる。これはおそらく、以前「いじめを取り巻く心理状況」でも書いた、コンプレックスの裏返しなのだろう。
つまり、困っている人を見掛けても手助けする勇気がない自分の気持ちを、「なかなか手助けする勇気が持てないんだよね…」と素直に言っていればそれでいいものを、コンプレックスの裏返しから、「態度が悪いから助けてあげようという気になれない(だから私が助けないのは当然だ)」などという思考回路になって、蜷川実花氏を叩いてしまうのだろう。自分自身を責めるのはしんどいので、相手を責めるというわけである。
 
一方で、見ず知らずの赤の他人なら無視する人々でも、これが友人知人ならば手助けするのだろう。これは、心からの親切というのももちろんあるのだろうが、「不親切な人だと思われて排除されたくない」という心理も働いていると思われる。端的に言うと「いじめられたくない」のだ。
見ず知らずの赤の他人には冷たい一方、友人知人にはとても親切にするというのも、日本人の特徴として語られることが多い。これらは一見矛盾しているように見えるが、どちらも「いじめられたくない」という心理が基準になっていると仮定して考えると納得がいく。
大抵いじめがある集団というのは、どこかのグループに属していないと排除されるという圧力を、集団に属している全員が感じているという構造になっていることが多い。そのグループ内においては少しの衝突も許されないので、皆互いに必死でご機嫌を伺い合う。善良で親切そうな笑顔の下に、排除される恐怖と言いたいことが言えない苛立ちを抱えているのだ。友人知人への親切はこれと似ているのではないだろうか。
ならば、見ず知らずの赤の他人に親切にすることは、集団内で一人だけ目立つことや、いじめられている人を助ける行為を意味するのかもしれない。当然ながら、どちらも自分がいじめられる可能性を高める行為である。実際、「今ここで自分だけが手助けをすれば、周りの人に変に思われるのではないか」と考えて、行動を起こすことを躊躇する人は多いだろう。
 
行動を起こせないコンプレックスから相手を叩く者にとっては、行動を起こす者も妬みの対象になりやすい。「いじめを取り巻く心理状況」でも、いじめにあっている弟を助けるために学校に話をつけに行った>>1とその父親に対して、「>>1と父親は、いじめられていた弟を助けるべきではなかった。弟が自分で解決するべきだった。」と主張する者が現れている。
行動を起こす者の足を掴んで、自分と同じレベルに引き摺り下ろそうとする者たちが、互いを牽制しあった結果、駅の階段で子連れの母親を助けるという行為は、非常にハードルの高いものとなってしまったようだ。