写真は明治5年の『崎陽新塾活字製造所』、(新町活版所ともいう)の活字見本です。
本木昌造はよくいえば探究心、悪く言えばやたら好奇心の強い人だったようです。
新米通詞のころ輸入蘭書にからんで、8か月ちょっと入牢させられるような目にもあっています。
話は少しそれますが、今年はNHKの連続ドラマのせいで坂本龍馬ブームです。昨晩は土佐藩の切れ者後藤象二郎と海援隊の龍馬が土佐藩の持ち船夕顔で大阪に向かう船中八策のシーンでした。
実は、その夕顔に1等機関士こそ誰あろう本木昌造の一番弟子ともいうべき平野富二でした。平野は龍馬に操船の腕を見込まれていたのです。慶応3年の6月のことです。
京都近江屋で龍馬が中岡慎太郎とともに凶刃にたおれたとき、富二は長崎にいましたが、はたしてどんな心境でしたでしょうか。
翌年慶応4年、江戸城明け渡し、本木は長崎製鉄所の所長になり、平野富二を小菅修船所所長に任じます。船乗りから陸にあがり、造船に転向した平野は翌年、長崎県権大属として県知事を補佐するいっぽう、本木のあとを受けて長崎製鉄所所長になります。
まさに、異例の出世です。
このときの本木に対する恩義が平野が本木の懇請を受けて長崎新塾活版所の事業を継承する決心を生むことになったのでしょう。