gooブログはじめました!i自民党政権60年間で検察・マスコミ・政界・財界癒着を利用し税金分捕りで1000兆円の使い込み

自民党60年間通して官・報道・財・政・の癒着と大企業・金持ち優遇政策と引き換えに、税金分捕りの負債1000兆円返せ

「国民的人気」の虚像 - 鍍金が剥げた舛添要一

2010-04-30 00:32:30 | 自民悪政で1000兆円借金を国民が応援
マスコミが捏造した「国民的人気」の虚像 - 鍍金が剥げた舛添要一 (世に倦む人々)
<SINAME>投稿者 純一 日時 2010 年 4 月 22 日 21:52:07: MazZZFZM0AbbM

今年は天候が不順で雨が多い。気のせいか、このまま雨が降り続いて、そのまま梅雨に入ってしまいそうな悪い予感がする。そして夏には、酷暑にせよ、豪雨と長雨にせよ、今では想像もしていなかった恐ろしい気象状況が待ち構えていて、国民生活に深刻な打撃を与えるのではないかと不安になる。

今の時点では、多くの者が悪い方には考えようとせず、少しすれば気候も持ち直し、いつもの5月の初夏の陽気が訪れ、夏らしい夏を迎えると思っている。不順は長く続かず、元に戻ってくれると信じている。心の作用で、願望を予想に代えている。

バブル崩壊後の90年代半ばがそうだった。苦しい時代は少し続くけれど、やがて日本経済は景気を回復させ、不良債権の処理にも目処が立ち、サラリーマンの収入も増えて暮らしは元に戻るだろうと思っていた。物騒な少年事件が起きても、経済が回復する中で傷んだ人心も治癒され、日本社会は再び正常で健全な姿を取り戻すだろうと思っていた。

今、作物を育てている農家は本当に大変だろう。これからの未来は農業が主役だと、われわれは簡単に言うけれど、農業は異常気象による被害を直接に受ける産業だ。そして、零細で脆弱な小経営の損益分岐は、常に良好で安定した環境の持続を前提に組まれている。ハプニングやアクシデントのリスクに弱い。農業だけでなく、作物市況が影響を与える全ての小経営や、天候に客足が左右される小売業にとって、今年の気候不順の行方は深刻な懸念材料のはずだ。
 

舛添要一の騒動について、心底を正直に白状すれば、この男と自民党の不幸が小気味よく、ワイドショー政治の娯楽寸劇を、私も観客の一人になってテレビの前で愉悦している。この娯楽情報に満足を覚える。テレビのコメンテーターは何も言わないが、誰かが口に出して言うべきは、こんな人望のない男が、「次の総理に期待する政治家」の世論調査で第1位の人気を博していた不可思議の指摘と追求である。その欺瞞の暴露と告発である。

テレビの視聴者は、誰もがそう思ったのではないか。大衆が「次の総理に」と期待する人気政治家の大物が離党するのに、何で一緒について出て行く議員が一人しかいないのか。要するに、舛添要一の大衆人気というのは、マスコミが捏造した虚像であり、本当は実体のない偽造品だったということだ。読売などの保守マスコミが作り上げた虚像に身を合わせて、舛添要一は役割演技していただけで、テレビ役者をパフォーマンスしていただけなのだ。

同じ虚構の物語はマスコミによって何度も製作され上映された。安倍晋三の「国民的人気」がそうである。それから、「若者に人気のある」麻生太郎がそうだった。最初にマスコミがその政治家を人気者に仕立て上げる意図を持ち、テレビ報道で脚色と演出を重ね、事実ではない虚像のイメージを作り、繰り返し放送し、その後に怪しげな「世論調査」で数字を固めて、その「人気」を既成事実にしてしまうのである。同じ手法を用いれば、山本一太も簡単に「国民的人気」の政治家に化けてしまう。

騒動の中で、テレビ役者の仲間だった平沢勝栄までが、あっさりと舛添要一に見切りをつける発言を言い捨て、政治家の毀誉褒貶のクロック・スピードに驚かされたワイドショー観客も多かったのではないか。

舛添要一の政治的実力とは、所詮、極右泡沫政党の改革クラブの御輿に収まる程度でしかなかったのである。自民党内の新自由主義の同志である中川秀直や山本一太や世耕弘成は行動を共にしていない。成算がないからだ。

小池百合子や河野太郎は谷垣執行部の中に身を隠した。新自由主義では旗にならず、政策軸として有効にならないのだが、その旗を振れと財界と米国とマスコミが言い、カネを出してくれ、テレビに出してくれるから、新自由主義者は新自由主義の政策主張を言い続け、それを旗印にすると言いつつ、一人また一人と自民党から抜け出して行く。今後、テレビは平沢勝栄と同じく、舛添要一を冷たく見下すようになるだろう。

自分が作って持ち上げた虚像の「人気者」に、今度は泥を塗り始めるに違いない。舛添要一は単なる自信過剰のポピュリストで、特に政治理念の持ち合わせはなく、あったとしても新自由主義と親米右翼国家主義でしかない。並はずれた性欲と権力欲と自己顕示欲だけの人間だ。ただ、この男が有頂天になり、自分こそが次の総理だと錯覚したとしても無理もないと同情する余地もある。ごく至近距離で、森喜朗と小泉純一郎を見て、安倍晋三と麻生太郎を見てくれば、あんな男が総理で何でオレがと、元東大助教授の舛添要一が思っても不思議はない。


そもそも舛添要一は何で「人気者」になったのか。答えは簡単で、マスコミが舛添要一を頻繁にテレビ出演させたからである。日本テレビは舛添要一を以前からワイドショーの解説者で使っていて、政治家に転身してからも、単なる政治家としては扱わず、政治報道のコメンテーター役で出演させていた。読売新聞の記者だった身内の石原伸晃に対しても、同様の別格の扱いで登壇させている。こうした待遇をテレビが特定の政治家に与えれば、当然、プリファレンスは他と比べて桁違いに上がる。

テレビ番組に出演頻度が多い芸能タレントほど、人気が高いタレントだと評価されるのと同じだ。テレビに多く出た政治家が、テレビ出演の少ない政治家よりも、世論調査で高い「人気」を集めるのは当然だろう。コンビニやスーパーの商品でも同じで、ベストな陳列位置に置かれて消費者の目に止まる商品が、そこから外れた商品よりも多く売れる。メーカーによる製品のシェア競争は、店頭の売り場の争奪戦でもある。CMは大量に投下すればするほど多く商品は売れる。

テレビに誰を出すかはテレビ局が決める。視聴者が選ぶのではない。テレビ局が番組に出す人間を決め、その人間を頻出させて人気者に仕立て上げる。
舛添要一は、マスコミの思惑によって「人気政治家」になったのであり、国会や地域での活動や業績が評価されて人気を得たのではない。政策能力とも関係ない。
その「人気」の実質はテレビタレントと同じで、テレビ局による作為の所産である。大衆はテレビに多く出ている政治家に親しみを感じ、その政治家を有能だと思い込んでしまう。

マスコミは、参院選を前に新党が次々に立ち上がっているのだと報道する。民主党にも自民党にも期待できない無党派層が増え、その受け皿作りの動きが進行中だというコンテクストで新党騒動を位置づけている。与謝野馨や中田宏や舛添要一の新党シンドロームに対して、深くコミットすると後で立場が微妙になるので距離はとっているが、基本的に積極的な意味を与えて報道している。

しかし、本当は新党が立ち上がっているのではない。自民党が壊れて、壊れた部分が削り落ちているのである。金丸信の言葉のとおり、馬糞の川流れの現象が起きているだけなのだ。大きな塊にも、小さな塊にも、理念も方向性もなく、ただ流されて消えて行くだけである。

われわれが疑うべきは、みんなの党の「人気」だろう。本当は、これもマスコミの作為であり演出である。人気の正体は捏造である。 渡辺喜美も、与謝野馨や鳩山邦夫や舛添要一と同じ穴の狢ではないか。自民党の中で騒いで支持を集められず、結局、党を飛び出さざるを得なかったテレビ役者ではないか。どれも同じだ。マスコミの作った虚像である。

舛添要一にしてみれば、無能で不細工な渡辺喜美の新党でさえ、B層の大衆の支持が集まって参院選で10議席も取れるのだから、オレがやれば20議席も十分見込めると、そう思うだろう。しかし、それにしても、参院選の政治討論番組の絵を想像すると気が重たくなる。与謝野馨と舛添要一が出て来るのだろうか。それに田中康夫も顔を揃えるのだろうか。新党日本は、いずれどれかの新党と合併するのだろうか。テレビに出たい目立ちたがり屋ばかりが跳梁し、まともな選挙の政策討論にならない危惧を覚える。

みんなの党の政策理念は、基本的に小泉構造改革の維持であり、その名前を変えた「成長戦略」路線である。成長戦略の中身は、法人税減税と規制緩和と道州制であり、経団連が一貫して求めてきた政策を党の根幹に据えている。「小さな政府」の路線だ。「成長戦略」という標語を堂々と掲げて憚らないこと自体が、麻生太郎や中川秀直との路線的同一性を標榜する証拠であり、小泉改革路線の直系たる党派的本性を毒々しく露出している。

今回、消費税増税を参院選マニフェストから見送るらしいが、予想以上に支持率の手応えがよく、選挙の集票に色気が出たのだろう。この立ち回りで思い出すのは、2年ほど前、竹中平蔵が不意に消費税増税に反対の論陣を張り、無駄を削って経済成長するのが先決だと口走っていたことだ。渡辺喜美と江田憲治は、この竹中平蔵の論法を借用したのに違いない。

みんなの党は、その党名からも推測できるとおり、一時的で暫定的な性格の政党である。動機は舛添要一と同じで、自民党を新自由主義で政策的に純化した上で、自分が幹部になろうと足掻いた結果、それに失敗して中途半端にできた党で、政界再編、すなわち民主党に対抗する新自由主義勢力の結集を目指している。

渡辺喜美もまた、離党結党時に橋下轍を頼り、大阪まで行って参加を懇請しながら断られていた。どれも経緯は同じだ。橋下轍の登板を待っているのであり、それまで我慢して待機する方針だったのである。ところが、橋下轍が今夏の参院選での政界出馬を見送ったため、ドタバタと混乱して新党が早漏的に噴出している。そういう陳腐な事情に過ぎない。

橋下轍が出なかったため、新自由主義勢力の中核であるマスコミは、やむなく渡辺喜美のみんなの党に「支持率」を集め、「世論の人気」を演出しているのである。いずれ、化けの皮は必ず剥がれる。舛添要一と同じように。

さて、普天間移設の政局は、少し前には想像もできなかったほど「国外移設」の世論が前面に浮上した情勢になっている。すべて、徳之島と沖縄の人々の奮闘努力の賜であり、反対運動に立った現地の人々に敬意を表したい。とりわけ、全住民の6割が参加した徳之島の集会は、普天間基地の移設場所を国内に探すことの無理を国民に周知させた。この集会の映像を見て、これまで大村空港とか佐賀空港とか、九州の地名を言っていた者も、それを気安く口にすることはできなくなっただろう。海兵隊の基地が移転することの意味は、東京の政治家よりも現地の住民が理解している。振興策のカネでは失うものは償えない。

普天間移設の選択は三つであり、県内か県外か国外である。三択問題だ。三択のうち、二番目の県外が完全に消えた。徳之島の壮絶な反対集会を受けて、県外の選択肢が消えた結果、一番目の県内(沖縄)の妥当性も消される方向に導かれた。徳之島があれほど拒絶している米海兵隊を、65年間も押しつけられ、さらに基地負担を増やすのかという沖縄の主張に対して、誰も正面から反論できないからである。県内とも言えなくなった。

論理的帰結として、三番目の国外の選択へと世論が流れている。今、世論調査を行えば、間違いなく「国外」が多数になるだろう。これでいい。鳩山政権が普天間を三択の政治にしたことは、結果的に米国と売国官僚を追い詰めた。

三択なら国外の結論にしかならない。そうなれば、争点は日米同盟の意義と海兵隊抑止力の検証の勝負になる。「日米同盟の重要性」と一言言えば、水戸黄門の印籠を突き出されたように、日本国民がハハーッと拝跪して沈黙していた時代は終わる。



最新の画像もっと見る