文鮮明先生のみ言
「天国を開く門 真の家庭」P100より一部抜粋
愛は、一人では成されないのです。
愛は、どこから出てくるのですか。
「私」から出てくるのではなく、相対から来るのです。
相対から出てくるので、「私」が頭を低くして相対のために尽くさなければならないのです。
「ために生きる」という天理がここから生まれるのです。
極めて高貴なものが「私」のところに訪れるのですが、
それを受け入れようとすれば、それを貴く思い敬わなければならないという「ために生きる哲学」を実践しなければならないのです。
(第四節 愛は相対から来るもの)
愛は、私から出発しているのではないのです。
相手がいてくれるお陰で、愛する気持ちが生まれるのです。
愛したい!という思いは、人を幸せな気持ちにさせます。
それは、相手がいるお陰なのです。
だから、相手のために尽くさなければならないのです。
世間一般で愛と思われている、奪いたい、自分のものにしたい、という思いは、真の愛ではなく自己中心的な思いなのです。
え?
どういうこと?
と、思った方。
原理講論の中の堕落論を読んでみて下さい。
(原理講論とは、統一教会の教議の中心的書物です)
詳しくは、お近くの統一教会まで
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