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天正18年(1590年)8月1日、徳川家康が江戸に入城しました。
この話は、7月13日の『豊臣秀吉が徳川家康に七カ国を与える』の続きです。 家康の天下取りへとつながる『江戸お打ち入り』で、関が原の戦いの10年前です。 この日は『八朔(はっさく)』といって、江戸時代は幕府の重要な『祝日』でした。 家康が入城した当時の江戸は、ひなびた漁村でした。 15世紀、太田道灌(おおたどうかん)が築いた館(やかた)がありましたが、荒れ果てていたといわれています。 家康の側近であった本多正信は「他の大名の使者が来るのですから、玄関ぐらいは、見栄えを良くしてはいかかでしょうか」と進言しました。 しかし、家康は「無用なことだ」と退けたといわれています。 新しい領国である関東をいかに統治するか、それを実現するのに手一杯であったかもしれません。 13年後の1603年、家康は征夷大将軍となり、名実ともに天下人になりました。 そうなれば、大名たちを自由に使えます。 将軍の居城であり、同時に幕府の政庁でもある江戸城の建設が開始されました。 江戸城の周辺には大名、旗本の屋敷、そして町人の住居も建てられていきました。 当時の江戸は、諸国から建設工事の労働者が集まる、気性の荒い男達の新開地でした。 開拓時代のアメリカ西部と同じ雰囲気でしょう。 やがて、その中から江戸文化、そして『江戸っ子』が生まれてきたのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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