自己啓発の女王とも呼ばれたカリスマ勝間和代がAmazonのレビュー・システムについてクレームをつけていた。僕自身は勝間和代のファンでもなければ、勝間和代がいうところの「アンチ」でもない。勝間和代は外資系企業でサラリーマンをしていて、その後はネットで人気になり、一気にテレビでもブレークした。少なくとも最初のふたつに関しては僕と多少なりとも共通点があるので、僕は彼女の著作や活動をたまにフォローしていた。そして今日たまたま読んだ勝間和代のブログに書いてあったAmazon批判について、僕は少なからぬ違和感を感じた。それはちょっとちがうんじゃないかな、と思った。だから今日はそのことについて何かを書いてみようと思う。よく冷えたコロナビールを飲みながらね。

1. 著者の知名度が広がるにつれて、必ず「アンチ」が生まれます。
その人たちは、あまりにも対象の存在自体が不愉快なので、自身の心の平穏を保つため、ストレス解消の方法の1つとして、ありとあらゆる方法で著書や著者に対する攻撃を始めます。そのパワーたるや、尊敬に値します。
2. ところが、アマゾンは「アンチ」のレビューに対して、以下の理由で、たいへん脆弱なしくみを持っています。

 中略

私は自分のことを特別扱いをして欲しいわけではありません。悪意に対して脆弱な現在のアマゾンのレビューのしくみを改善して欲しい、と要望しているだけです。

アマゾンのレビューが荒れやすい理由への考察〜そしてアマゾンの対応についての報告、勝間和代


要するに、Amazonに投稿された多数のレビューが勝間和代の本を批判するものだったので、勝間和代はそれを削除するようにAmazonに要請した。ところがAmazonはそれを断った。怒った勝間和代は、今後Amazonとのビジネスには協力しないし、彼女のサイトの書籍のリンクからAmazonを外すといっている。多数のファンを抱える彼女の大きな「影響力」を使ってAmazonに圧力をかけているのだろう。

いくら勝間和代の影響力が大きいとはいえ巨大なAmazonの本の流通量から見れば、Amazonにとってはひとりの評論家のネガティブ・キャンペーン自体は大した問題ではない。また勝間和代のファンであったとしても結局は一番便利なところから本を買うだけだ。今のところ流通センターや本の倉庫に地道に設備投資をしてきたAmazonが書籍通販のNo1であり、勝間和代のファンであったとしても多くのものがAmazonで本を買い続けるだろう。

むしろAmazonにとって重要なことは、勝間和代の指摘が本当に重要なAmazonのレビュー・システムの欠陥を浮き彫りにしているのか、それともただ単にひとりの評論家の感情的な批判なのかだ。僕自身は今回の件に関してはAmazonの方に分があると思う。いちいち作家からの依頼で批判的なレビューを削除することは、オペレーション・コストの観点からも無理な注文であるし、またそんな手を加えられたレビューでは誰も信用できないからだ。

確かに一部の人気作家には多数の「アンチ」がいて、彼らが執拗に批判的なことを書き続けるということもある。僕もそんな「アンチ」が多いブロガーのひとりだ。でもネットの世界というのは、そういった「アンチ」や彼らの執拗な批判コメントも含めての評判が、作家、あるいはブロガーの評判そのものではないかと思うのだ。だからそういった批判を人工的に取り除くのは本当の情報を歪ませてしまうと思う。そういう意味で今回のAmazonの対応、つまり勝間和代の削除要請を断ったのはとてもよかったと思う。勝間和代流にいうならばAmazonは「断る力」を適切な場面で発揮した。勝間和代が怒る気持ちもわかるけど、自由でフラットなインターネットの世界に完璧なレビュー・システムなどといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

それに勝間和代が最近出したこの本は、いくらなんでも賞賛するレビューを書くことはむずかしいと思う。たとえ彼女の熱烈なファンであったとしても。内容以前の問題として、この本のタイトルと表紙の写真ではさすがに冷静な書評を書こうという人はそれほど多いとは思えない。たとえコロナビールを1ダース飲んだとしても。彼女も大人、それも成功した大人なんだからそれぐらいのことはわかってくれないだろうか。


しかし僕が感じた違和感はこんな一般論じゃない。僕は勝間和代がネットで叩かれるようになった理由はもっと深いところにあると思っている。それは単に有名になってそれに比例して「アンチ」が増えたなんていうことよりもはるかに深刻な問題だ。

僕も含めて、いわゆるインターネットのメディアでがんばっている人たちは、もちろん自分の利益のためにがんばっている。ニュース・メディアなどは当然広告収入が目的だろうし、個人ブログだってアフィリエイトやその他のマーケティング上の目的がある。どんな活動も継続的な利益を生み出さなければ続けられない。インターネットのメディアとてその例外ではない。金儲けから逃げられないし、また金儲けから逃げる必要もない。金儲けは健全な市場経済の中において社会に貢献するもっとも強力な手段だ。

しかしインターネット・メディアに関わる人たちの多くが、金儲け以上の社会的意義を確かに共有しているし、それをとても大切なものだと思っている。日本ではテレビ局の力があまりにも強大すぎるし、テレビに関わる既得権益は日本の政治と深く結びついてしまっている。テレビほど世論誘導を強力に実行しうるメディアは日本にないし、本来、メディアというのは国家権力を監視するというのがとても重要な社会的役割なのに既存のマスコミと国家権力はべったりだ。

最近では検察が厚生労働省のキャリア官僚を逮捕し、結局無罪になったことから批判されているけれども、これだってもとはといえばメディアの報道が原因だ。ワイドショーなどさまざまな番組でキャリア官僚が感情的に批判されていた。そのおかげで世の中は官僚たたきの空気に満ちあふれていた。そうすると検察としても悪いキャリア官僚のひとりやふたりぐらい逮捕して、大衆を喜ばせたいと色気がでてくる。ホリエモンや村上ファンドの村上さんが逮捕されたのも、やはりテレビによって作り出された「マネーゲーム=悪」という図式に検察が乗ったのだ。

良くも悪くも日本ではテレビ局が世論を形成し、国家権力がそれを追随するという傾向がある。そういった危うい日本の構造をなんとか正常に戻したい、もっとバランスを取りたいという願いが、我々のようなインターネット・メディアに関わる人たちの中にある。そうやって社会を少しでもよくしたいという思いがある。

しかしインターネット・メディアは毎年毎年すごいスピードで成長しているとはいえ、テレビにくらべればあまりにも非力だ。世論形成に影響力を持っているとは現状ではとてもいえない。ノイズも多く、やはりインターネットの情報は信頼性という点から、既存のメディアよりも一段下に見られている。それでもそういった欠点は少しずつだがさまざまなテクノロジーの進歩によって改善されている。僕もいくつかのブログやニュースサイトを読んでいるし、ツイッターもたまに使っている。僕にとっては、インターネットの情報の質や密度はすでにテレビよりもかなりすぐれているのだが、まだまだ多くの人にとってネットの中の玉石混交の情報の山の中で有用な情報を取捨選択することはむずかしいだろう。それでも10年以内にはインターネットはテレビと同等のメディアになると思うし、それは社会にとっても素晴らしいことだと思う。

このようにインターネット・メディアでは多くの人々が実はテレビ局などの既存の巨大メディアの「アンチ」なのだ。そこで勝間和代もネットの中で人気がある作家であり評論家だった。この時点では勝間和代がそれほど叩かれることもなかった。しかし彼女がネットの世界でブレークすると、徐々にテレビに出演する機会が増え、また日本国政府が主催する政策審議会などに頻繁に出席するようになった。もちろんそのこと自体は問題ではない。ところが彼女のちょっとした発言や仕草、彼女の一連の行動などからネットの住民は彼女から発せられる重要なメッセージを読み取らないわけにはいかなかった。

元々ネット・メディアは、日本の統治機構にがっしりと寄生した既存の巨大メディアに対抗するために起ち上がった一部の精鋭によるゲリラ部隊みたいなものだった。そして各地のゲリラ部隊がお互いを認め合いゆるやかに連携していた。それは政治と強固に結びついた既得権益層に牛耳られている日本経済を開放するための連合軍みたいなものだ。テレビ局がその統治機構の中に組み込まれてしまっているので、テレビからジャーナリズムの本来の役割を期待することはもはやできない。だからこそインターネット・メディアが発達しなければいけないのだ。

ところが勝間和代が暗に発したメーセージとは次のようなものだった。ネットの世界で認められたので、ネットよりも「階級」が上、つまりテレビの世界からもお呼がかかったし、政府の政策審議会などのより「権威」のある場に参加する資格を得た。つまりインターネットというのはテレビや政府といったより高い階層の下に位置する下部組織みたいなもので、そこには厳然たるヒエラルキーが存在する。フラットとか自由といったインターネットの世界でとても大切な考え方と真っ向から対立する概念が飛び出してきたのだ。これではまるでインターネットの世界で活動している人たちは、テレビというより位が高いところにいきたくてもいけない2級市民であり、テレビ局がメジャー・リーグだったらインターネットはマイナー・リーグといっているようなものではないか。インターネットというのは多数の欠陥を抱えながら、既存の巨大メディアに対向するべく日々進化している僕たちの民主主義の救世主みたいなものだと思っていたのに、テレビで見える勝間和代の笑顔が僕たちにつきつけた現実は、インターネットというのはテレビ局の下部組織みたいなもので、野球でいえば2軍だということなのだ。テレビ局はインターネットで面白そうな人間を見つけて上の世界であるテレビに、勝間和代のように引き上げてやることはできるけど、その逆はない。テレビの世界で売れなくなったタレントがインターネットの世界に落ちてくることはあっても。インターネットは電波という強固な利権を握ったテレビ局の下だからだ。下級市民だ。

インターネットの住民は勝間和代から暗に発せられるこういった屈辱的なメッセージを無意識のうちに受け取っていた。だから勝間和代はネットの世界で叩かれるようになるだろうなと、僕は思っていた。そしてAmazonレビューの数々のコメントを見たとき、やっぱり僕の仮説は正しかったのだなと思った。

実際にテレビに出演したり、政府の政策審議会に頻繁に勝間和代が顔を出すようになってからというもの、彼女の意見が微妙に既得権益よりに傾いていったし、彼女自身も無意識の内に自ら築き上げた「勝間帝国」を守ろうという気持ちが強くなりすぎた。

たとえば「国民の選択 勝間の視点」の中で彼女はこう言っている。

「格差社会になったのは金持ちを優遇する税金のせいだ。高額所得者に対する税金は昔は80%もあったのに今はたったの50%だ。弱者を守るためにもこれは70%程度に戻す必要がある」

金持ちを攻撃して、弱者を守りたいだのキレイ事をいって、実は自分の特権的な既得権益を守るための政策パッケージを提案するというのは為政者の常套手段だ。そしてこれはそのことがとても端的にあらわれている。なぜ勝間和代が成功したのか? 答えは勝間和代はサラリーマンを辞めて独立するという大きなリスクをタイミングよく取り、そして結果的にそれがうまくいったからだ。もちろん彼女にそれだけの資質があり、不断の努力をしたことは間違いない。しかしそもそも彼女はなぜリスクを取ることができたのか? それは彼女が外資系企業に努めておりサラリーマンでありながらも数千万円の給料をもらい、当面は生活に困らないほどの蓄財ができたからに他ならない。サラリーマンはお金持ちになれないというのは半分本当で半分嘘だ。今では普通にサラリーマンをしているだけでちょっとした財産を作れる仕事がたくさんある。大金持ちにはなれないけれども。そうやってちょっとした財産を作れば勝間和代のようにリスクをとって大いに成功するものもたくさん出てくるだろう。所得税の最高税率を引き上げるということは、勝間和代が自ら辿ったその道を塞ぐということに他ならないのだ。これはちょっとあからさまじゃないの、と僕は思った。

勝間和代は巨大な権力に抵抗するためのレジスタンスの一員として戦っていた。しかし今やその権力に自らが取り込まれ、特権階級の一員として、かつての同胞を2級市民のごとく見下しているように感じられる。Amazonの大成功の傍らで多くの小規模の書店が次々とつぶれている。経済活動というのはある意味で生存競争であり、最終的には抜き差しならない利害の対立になる。Amazonと多くの小規模の書店が決して相容れないように、インターネット・メディアも既存の巨大メディアと全面戦争をはじめる時がやがてくるだろう。今はあまりにも力が弱すぎて、見過ごされているけども。そういう意味で勝間和代は体制側の人間になったのだ。両方の世界には同時に所属することはできないという単純なルールを知りながらも。少なくともネットの住民はそう認識したと思う。こういう文脈でみれば勝間和代が最近ネットで叩かれるようになった奇妙な謎も氷解する。