ますます好きになってきました。 | Petit Petit Happy Search(ぷちプチしあわせさがし)

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たけにむが求めていくぷちプチしあわせさがしの旅。ぷちプチしあわせも積もれば山となる。

兄弟姉妹のことをあ~だこ~だと判断して、なんとなく距離を置こうとする私。
でも、それは自分勝手にそう思っていただけで、意外と愛されていたのかも…と思いつつあります。

そんな過去の自分自身のクセでしょうか?
過去の自分が犯してしまった罪の申し訳なさ、
まだ少し苦手かも…という思いが抜けない方々に対して、
声をかけられると、“ビクッ”となって、条件反射的にその場から立ち去ろうとしていしまいます。
(危険を察知した小動物のように…まぁ危険は全くないのですが)
なぜそうなるのか?それは自分の足らなさにありました。

私に足りないコト…それは、優しくされたコト、愛されたコト、大切にしないコト。
どこか信じきれなくて、「コレ絶ッッッッッ対ウラがあるでしょ!?」と思って受け止めきれず、突っぱねてばかり。
与えられた愛に対して、美をお返しするのが本来あるべき人間の姿ですが、
私は真逆の方向に向かっていました。

優しくされた、愛された記憶はとても大切です。
生きていて辛いことの方が多いだけに…
でも、それがあれば、どうにかこうにか生きていくことができると思います。

ある対象を出し抜いてやろうという思いの力もありますが、
愛の力に勝るものはなし!
お互いがお互いのために生きる力の源ですから。

「信仰生活講座の祈祷伴奏用に何か楽譜持ってたら貸して~」と…
何らかの形で神様のために用いられるのが、どれだけありがたいかしれません。
「最近、ピアノに向かっているのをよく見ます。」と…
私の存在を認めていただいているようで、これまたどれだけありがたいかしれません。

今日も優しくされた、愛された記憶が脳ミソにプラスされました。
おかげさまで、今日よりも明日の方が、兄弟姉妹のことをますます好きになれそうな気がします。

与えられた愛を愛として受け止められないのはサタンの考え方だと思います。
神様のものとなるか、サタンのものとなるか…その責任分担は私たち自身にあります。
それならば、神様のものとなった方がいいのは明らかです。

私たちには、どのような環境においても“責任”が伴います。
今回の私に関して言えば、愛を素直に受ける“責任”でしょうか。
それを全うすることができれば、もう少し自分の周りの環境が整理されると思いました。

わたしの~ね~がう~し~あわ~せは~ あたえて~わすれる~まことの~あい~
(私の願う幸せは 与えて忘れる真の愛)

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