人間が人間であるための神について

2011-04-09 samedi

前に「辺境ラジオ」で名越康文先生と西靖さんとおしゃべりしたときに、「うめきた大仏」の話が出た。
これは海野つなみさん(このペンネーム、今はちょっと口に出しにくいですね)というマンガ家さんが投稿してくれたものである。
大阪駅の北ヤード開発はずいぶん前から衆知を集めて議論されていたのだが、いまだに話がまとまらないようである。
昨日もある雑誌から「北ヤードの再開発について」、三菱地所の役員ふたりと鼎談して欲しいというご提案を頂いた。
もちろん私が「うめきた大仏」構想の推進者であるということなどご存じないままに出た案であろうから、「私の話を聞いたら、不動産会社の役員さんたちは激怒されることでしょう」とお断りした。
「激怒」くらいで済めばいいが、そのせいで「誰だ、ウチダなんて野郎を連れてきたのは!」と上司に叱責されて起案した担当編集者が進退伺いとか減俸処分とかいうことになっては気の毒である。
でも、私は「うめきた」には大仏しかない、とほんとうに思っているのである。
もし、「うめきた」に大仏建立ということで大阪市民の合意が成立したら、その日をさかいにして、日本は変わるだろう。
私はとりあえずはまず大阪を「宗教観光都市」として再生すべきだと考えている。
もともと大阪は上町台地という南北の台地を中心に形成された街であり、この上町台地は(中沢新一さんの「大阪アースダイバー」に詳しいが)、南に四天王寺、北に石山本願寺という「浄土信仰の二大拠点」があり、この台地と東西にクロスする線(東に「生駒」、西に「西方浄土」)が大阪の霊的な方位をかたちづくっているのである。
大阪のメインストリートである「御堂筋」はご存じのように、北御堂と南御堂という二つの浄土真宗の寺院を結ぶ道筋のことである。
かつて近江や越前や能登から大阪にやってきた一向宗門徒たちは、この界隈に居を構え、「朝夕、御堂の鐘の聞こえる場所」で商売を営むことを願ったのである。
大阪はそのような因子が絡み合って形成された「宗教都市」である。
今日の大阪がしきりに「元気がない」といわれるのは、久しく大阪にその根源的な活力を供与してきた「霊的センター」そのものが衰微していることに多大な理由があると私は思っている。
今日、「街づくり」という行政がらみの話の中で、「そのエリアを霊的にどう賦活するか」というトピックが論じられることはまずないだろう(出たことがないので知らないけど、たぶんないと思う)。
昭和30年代から日本中に造成された「ニュータウン」の類は、いまほとんどがゴーストタウン化している。
それらの団地は、人跡のない丘陵地帯や埋め立て地に作られたので、広漠たる広がりだけがあって、神社仏閣も教会も宗教施設は何一つ勧請されていない。
それがそこに住む人々にある種の「霊的な飢餓状態」を作り出した。
そのエアポケットに乗ずるようにして、新興宗教や、オカルト教団や、ビジネスマインデッドな霊能者たちが「土地を守護する天神地祇」を持たない住宅地に侵入していったのはご案内の通りである。
前にも書いたことだが、阪急電鉄の小林一三は造成した千里ニュータウンの中に寺院の建立を許した。
戦後のデベロッパーの中で、「土地を守護する霊的センター」の必要性を理解できたのは小林一三が最後であろう。
たぶんその後は一人もいないと思う。
六本木ヒルズは霊的にはきわめて脆弱な建物だが、この設計に携わった人たちの中に、「この建物は霊的な守りが弱いので、いろいろと事故が起こる可能性がある」ということをプラニングの段階で指摘したものはいなかったのだろうか。
たぶんいなかったのだろう。
「霊的なプロテクション」などというものには数値的・外形的にお示しできるエビデンスが存在しないのだから、ビジネスマンの頭では無理である。
けれども、60年も生きてくると、いろいろ見聞してわかることもある。
それは人間が暮らす空間には、「霊的な備え」が必須だということである。
その理路はもう述べた。
霊的な備えをしておかないと、鬼神の類が人間を襲うというような話をしているのではない。
人間を襲うのは人間だけである。
人間が住まないエリアには神社仏閣などなくても、何の障りもない。
でも、いやしくも人間が住む場所については、「人間の愚鈍さや邪悪さ」ができるだけ物質化しないような「仕掛け」を凝らすことは必須の仕事である。
霊的装置が呪鎮する相手は天魔鬼神ではなく、生身の人間である。
生身の人間というのは、それぞれの社会集団に固有の「死生観」「霊魂観」を骨肉化している。
そのような宗教的「臆断」からまったく自由な人間など、世界のどこにもいない。
というのも、これもまた繰り返し書いてきたことだが、人間というのは「死者」という概念を有することで、他の霊長類と差別化された種だからである。
「死者」とは、「存在するとは別の仕方で」私たち生きている人間の生き方に関与するもののことである。
死者を正しく祀らないと「祟り」をなすという信憑を持たない集団は世界に一つも存在しない。
一つも、ない。
墓所も持たず、聖地も寺院もなく、死者についての神話も語り伝えず、誰かが死んでも葬儀をしない社会集団というものがどこかにあるなら是非教えて欲しい。
人間は喪の儀礼をなす。
それが人間の定義だからだ。
人間は「存在しないもの」に対しても、定められた礼法に従って、コミュニケーションを試みなければならない(返事はないが)。
だが、それにもかかわらず、「存在しないもの」をあたかも「存在するもの」たちのうちに立ち交じって、さまざまな具体的な働きをするものであるかのように「遇する」という義務からは逃れることが許されない。
人間が一定数以上住む場所には、必ず霊的なセンターを置き、「存在しないもの」に対する配慮を覚醒させ続けることは、人類学的には抗命を許されない絶対的命令なのである。
「存在しないものをして、『存在しないもの』としてそこにあらしめよ」
というのが私たちがそこから逃れることのできない人類学的命令である。
ビジネスマンたちは「『存在しないもの』は存在しないんだから、そんなもののことは考える必要がない」という、実は本人もほんとうは信じていないロジックで、都市から霊的なセンターを次々と放逐していった。
本人もほんとうは自分の言っていることを信じていない。
というのは、もしそれが本当なら、彼らは自分たちの祖先の墓をとうに棄てているはずだし、家族が死んでも葬儀も出さないはずだし、「どうして死体をそのまま生ゴミの日に出しちゃいかんのだ」と市役所に怒鳴り込むはずだからである。
でも、どんな超近代的な、非-霊的なビルを建てるビジネスマンでも、「そんなこと」はしない。
自分は私生活では「存在しないもの」の祟りを信じているのに、会社では「存在しないもの」は存在しないから、そんなものに配慮する必要はないと平気で言い募っている。
それができるのは、会社では彼らは「貨幣」という神さま(これも「存在しないもの」だが)を拝んでいるからである。
この「貨幣という神さま」はたいへん嫉妬深くて、自分以外の神を認めない。
そして、自分のことを「存在するもの」と呼べと信者たちには命じる。
「『存在しないものは』存在しないが、『存在するものは』存在する」というトートロジーのような呪文を「貨幣」信者たちは会社という聖所で毎日唱えさせられているのである。
つまり、ビジネスマンたちは会社では「会社の神さま」を拝み、家では「家の神さま」を拝んでいるのである。
無神論でもなんでもない。彼らもまた一日中「存在しないもの」を拝んでいるのである。
私はそれが「悪い」と言っているのではない。
どうせ拝んでいるんだから、「私はいつも拝んでいます」ということを率直にお認めになればよいと申し上げているのである。
人間は「拝むもの」がなければ、一瞬たりと生きてはゆけぬものなのです、とカミングアウトしてくださればいいのにと申し上げているのである。
そう言っていただいてはじめて「大阪にはちょっと『拝むもの』が足りないような気がするんですけど」という話が始められるのである。
というわけで、どうです「うめきた大仏」建立案。
政治家も官僚もビジネスマンも、真剣に考えてはくれないだろうか。
ほんとうにこれで大阪は起死回生的に蘇生する。
むろん神威によって蘇生するのではない。
大阪に住む人間が大阪を賦活させるのである。
人間というのは「霊的に賦活された気になると、毎日機嫌よく働く」のである。
レヴィナス老師が言われたように、「人間が人間に対して犯した罪は神といえどもこれを代わって償うことはできない」。
同じように、「人間が人間を励まし、癒し、支援する仕事は、神といえどもこれを代行することはできない」のである。
その「神といえどもこれを代行することができない」という一行があるからこそ、人間は「やる気」になるのである。
人間が「私には人間的責務が負託されている」と感じるためには、超越者を経由することが必要なのである。
人間が人間であるためにはどうしたって神霊たちの支援が必要なのである。
これがそれほど理解に難い話であるよう私には思えないのだが。