私事ですが、毎日原理講論を少しずつでも読み進めています。(6月17日の記事 Let's 原理講論 )今日は、ノア家庭の所を読みましたので、それを題材にしてみます。
ノア家庭における、裸の摂理という内容がありますね。箱舟から出て来たノア家庭が、第2人類始祖として新しい出発をする内容です。
その中で、父ノアの裸を次子のハムが恥ずかしがるという内容があります。それが、罪になったということは聖書にもある通りです。
このことが何故罪となったのか、原理講論には解説があります。その部分(P311)を引用しますと、
創造されたアダムとエバが、お互いにどれほど親しくまた近い間柄であったか、また、どれほど神の前に対しても、その前で隠し立て一つしない、水入らずの関係であったかということは創世記2章25節に、彼らはお互いに裸であっても、恥ずかしいとは思わなかったと記録されている事実から推察してみても、十分に理解できるのである。
神様がどれほど人間を素晴らしくお造りになり、神様の前に何一つ隠しだてすることのないアダムとエバがエデンの園で楽しむ姿を見て、どれだけ喜ばれたのか。
逆に、愛する我が子が身を隠し、裸を恥じ、神様の元を離れて行ったことを思えば、それは神様にとって、人間にとっても、親子の断絶の深い悲しみの瞬間であったことが分かりました。
私たちにとっては、裸でいるというのは考えられない世界ですね。それほどまでに神と人間が近かったことを思えば、今の私たちは、本然の姿からはあまりにかけ離れていると気づきます。
取って食べてはいけないという戒めを与えたのも、愛を完成するまでは、愛の関係を結んではいけないという親としての戒めでした。それは、愛が最高に貴く価値あるものとして、創られたがゆえに、完成して自らをコントロール出来るようになるまでは、待ちなさいということでもありました。
しかし、現代の私たちは体ばかりが優先してしまうので、心を体が治められず、体の欲望を中心として流れていくのだとつくづく感じます。
統一教会の結婚観は、結婚前は純潔、結婚後は夫婦間の貞操を守るという極めて単純かつ、現代においては守ることが難しい内容です。
結婚前は、将来出会うその人のためを思い、出会った後はその人をただ一人の対すべき男性女性として、世界中の誰とも比較にならない、最高の存在、他の人に目もくれない、そのような相対として神様が与えてくれるということです。
独身の私が書くのも変ですが、アダムとエバがエデンの園で出会った、それと同じ出会いを神様が私たちのために準備して下さっているようです。
どういう出会いが出来るのか、期待と不安の両方ですが、本然の出会い方が出来るように、「あなたの為に私は生まれ、育ってきた」のだと言えるのか、「こんなはずでは、、」となるのか、来るべき日に向けて祈る毎日です。
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