神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大正大学出版部最初の刊行物『華鬘』創刊号(大正15年11月)


 昨年11月西宮神社で第1回えべっさん古本まつりが開催された。下鴨納涼古本まつりを意識したものであったようだ。遠方なので、初日のみ参加した。大盛況で初回から成功と言ってよいだろう。ただ、合同レジと各店レジのエリアに分かれていたのは、ややこしかった。今年(令和6年)は、11月22日(金)~27日(水)開催予定。今から楽しみである。
 紙もの好きの猛者は、開場前から「図研」に集まっていた。私もそこから参戦。今回紹介する『華鬘』創刊号(大正大学出版部、大正15年11月)と第2号(同出版部、昭和2年3月)も図研で購入。2,000円と1,500円。大正大学附属図書館にも所蔵がなく、三康図書館が2号を所蔵しているぐらいか。「華鬘」は「けまん」と読み、仏具の一種である。仏教系大学らしいタイトルである。創刊号の目次を挙げておく。

 知らない執筆者がほとんどで、学内彙報に「児童研究会近況」、「仏教学会だより」、「宗教学研究室より」、「浄土学会便り」などが載っているので、買ったのだろう。2号に載る本郷バーの広告も良かった。雑誌の性格としては、校友会雑誌と思われる。2号の巻頭には、初代学長の沢柳政太郎が「現代における原始仏教」を寄稿している。
 
 創刊号の「編輯後記」(10月23日)に「出版部は仲[ママ]々の難産だった」とあるので、大正大学出版部は大正15年創立ということになる。奥付を見ると、創刊号の発行日は大正15年11月6日で、これは大正大学開学の日である。開学と同時に出版部も創立されたと見てよいだろう。
 『大正大学五十年略史』(大正大学五十年史編纂委員会、昭和51年11月)の「大正大学略年表」で出版部に関する最初の記述は、昭和2年4月1日の条の「大正大学出版部規定施行」である。これだけ見ると、昭和2年創立と思いかねない。『早稲田大学出版部一〇〇年小史』(早稲田大学出版部、昭和61年10月)のような社史は出てないのかな。再来年(令和8年)が大正大学及び大正大学出版部創立100周年ということになる。

『近代仏教』31号に『「日本心霊学会」研究』(人文書院)の書評(木村悠之介)


 昨年5月東北大学でシンポジウム「近代仏教史とオカルト研究ー吉永進一が残した課題の可能性ー」が開催された。京都でやってくれたらのぞきに行けたが、仙台では中々厳しいものがあった。しかし、幸い先月刊行された『近代仏教』31号(日本近代仏教史研究会)に記録が掲載されたようである。昨年の30号(冒頭の写真)掲載の「追悼 吉永進一氏(一九五七~二〇二二)」に続き、吉永さん関係の記事が読めて嬉しい。吉永さんの著編書への書評も2本掲載された。
 早速注文したがいつ届くか不明なところ、執筆者特典?で栗田英彦編『「日本心霊学会」研究:霊術団体から学術出版への道』(人文書院、令和4年10月)の書評を読ませていただけた。評者は木村悠之介氏である。
 木村さんに初めて会ったのは、平成31年1月の「限界宗教雑誌バトル」であった。『神道と図書館』*1の執筆者ですと挨拶された。木村さんの発表は、神風会を創立した宮井鐘次郎関係の雑誌だった。私は、研究者でもないのに吉永さんにコメンテーターに引っ張り出されていた。私が「神風会は、安藤礼二先生が『折口信夫が本荘幽蘭に出会った団体』と紹介してますね。私は宮井の経歴を調べたことがありますが、不詳でした。経歴は分かりましたか」と発言すると、「これは別の研究会で発表したものですが」と、生年や没年(推定)のほか関係した事件などを回答されたと思う。吉永さんと共に感心したことを覚えている。宮井に関する木村さんの発見は、その後令和3年10月に刊行された平山亜佐子『問題の女:本荘幽蘭伝』(平凡社)でも活用されている。
 3月31日に三回忌を迎えた吉永さんも今回の書評を喜んでおられることでしょう。ありがとうございます。
 1点補足しておこう。サブタイトル中の「学術出版への道」への疑問を呈しておられる点である。私は、この部分を現在の人文書院と誤読していたので違和感はなかった。しかし、戦前における日本心霊学会から人文書院への転身を現すものと読むべきで、疑問を持つのももっともであった。決めたのが編者の栗田さんか編集者か知らないが、「霊術」・「学術」の語呂合わせと「会社概要 - 株式会社 人文書院」にある「戦前は、心理学書を中心に文学書(国内)などを主に出版し、(略)人文科学系の学術的、啓蒙的な書物を刊行していました」との認識に基づくものかもしれない。まあいずれにしてもサブタイトルなので大目に見ましょう。
 

*1:近代出版研究』第3号(皓星社発売、令和6年4月)の木村「昭和七年「雑誌祭」の謎ー読書週間と図書祭の狭間に」の注6によれば、東京大学神社研究会の『千五百秋』第9号(平成29年)に補訂再録し、国会図書館に納本済

最後まで光り輝いた金尾文淵堂の京都時代ー幻の与謝野晶子『源氏五十四帖:歌集』ー


 石塚純一『金尾文淵堂をめぐる人びと』(新宿書房、平成17年5月)は、金尾文淵堂の歴史を次の4期に分けている。
第1期(明治32~37年)
第2期(明治38~43年ころ)
第3期(明治44~大正12年ころ)
第4期(大正13~昭和22年)
 そして、第4期について次のように記述している。

(略)昭和一三年に与謝野晶子『新新訳源氏物語』全六巻を刊行、これを機に出版活動がやや回復するが太平洋戦争が始まり、金尾文淵堂は大阪空襲により京都市中京区西ノ京円町に移転、終戦を迎えた。戦後も九点ほどの出版を行ったが、昭和二二年の一月二八日、狭心症のため金尾種次郎は永眠した。

 この金尾文淵堂終盤の京都時代に発行された書籍については、石塚先生が把握してない三田谷啓「正しき躾」も存在するらしいことを「京都時代の金尾文淵堂と製本所真英社 - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。更に「須田国太郎が表紙絵を描いた京都三中の同人誌『時計台』:橋秀文論文への補足 - 神保町系オタオタ日記」で言及した『時計台』第1輯(時計台同人、昭和21年11月)巻末掲載の金尾文淵堂の広告を見たら、驚いた。画像を挙げておこう。

 『正しき躾』のほかに、与謝野晶子『源氏五十四帖:歌集』が掲載されている。これは、おそらく「源氏物語礼讃」と呼ばれているもの、すなわち晶子が『源氏物語』各巻の内容を短歌に詠んだものだろう。最近でも鶴見大学日本文学科・源氏物語研究所編『与謝野晶子が詠んだ源氏物語鶴見大学図書館蔵『源氏物語礼讃』二種』(花鳥社、令和6年2月)が刊行されたところである。同書には従来確認された刊本、屏風、短冊、巻物、折帖など各種の『源氏物語礼讃』が記載されているが、本書には言及していない。
 前記広告には「二八・〇〇」という値段や「送二・〇〇」という送料も記載されていることや、晶子『新新訳源氏物語』にのみ「近刊」と表示されていることから発行された可能性は高そうだ。どのような本だったかというと、国会デジコレで読める高島米峰『心の糧』(金尾文淵堂、昭和21年7月*1)巻末の「金尾文淵堂図書一覧」に「色紙形自筆」とある。
心の糧 - 国立国会図書館デジタルコレクション
 昭和13年10月から14年9月にかけて金尾文淵堂が刊行した『新新訳源氏物語』全6巻の巻頭には「源氏物語礼讃」の色紙の写真が掲載されたので、それを使ったものと思われる。
 金尾文淵堂が京都時代に発行した本は、所蔵する図書館が少ないものが多く、現存が少なそうだ。創立者種次郎は、昭和22年1月28日没。予告された『新新訳源氏物語』の再刊は、刊行されなかったと思われる。『源氏五十四帖』の方は発見される日は来るだろうか。それとも永久に幻のままで終わるだろうか。

*1:国会図書館サーチでは、国会図書館蔵の複本の一部が昭和24年発行になっている。

竹内文献の信奉者で藩札狂の前田惇と東京美術学校長正木直彦


 別件で東京美術学校長正木直彦の『十三松堂日記第1巻』(中央公論美術出版、昭和40年9月)を読んでいたら、自他共に認める藩札狂だった前田惇*1らしき人物を見つけた。何回も読んだ日記だが今頃気付いた。

(大正十三年)
 六月二十五日 晴 出勤 楮幣蒐集家前田□□氏来訪 楷幣の我邦に在るものは堺の町人の間に通用せる私幣に始まるといひ藩札は元和年間のもの最古なり 徳川末葉にて諸藩藩札を濫発せし為にその数は五千余に及へりといひ支那のものは唐の会昌年間のものを最古とし宋より明のもの今尚多数に存在せりといへり 最近長崎にて昔の交易商の子孫より享保より文化文政天保弘化に至るまで和蘭陀船の船載せし更紗モールビロード占波なと約千五百種ほと買取りたりとて之を携示せり (略)

 「□□」には「原文空白」とのルビがあって翻刻者は2文字分を想定しているが、おそらくは「惇」1文字分の空白と思われる。前田は昭和4年10月に酒井勝軍と共に天津教の「神宝」を拝観。昭和5年12月第1次天津教事件で警視庁に取り調べを受けている。その時の肩書きは、皇国神代文字仮研究所・大日本藩札研究会長であった*2。翌年5月東京帝国大学法学部の明治新聞雑誌文庫に出現して吉野作造に「山師」と見破られたことは、「[トンデモ]明治新聞雑誌文庫に迫るトンデモの影 - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。この後間もない昭和6年7月12日に前田は脳溢血で亡くなっている*3。 
 なお、Kamikawa氏の「梅原北明が作成した『変態趣味研究家名簿』について|Theopotamos (Kamikawa)」によると、梅原北明「変態趣味研究家名簿(第1輯)」『変態・資料』3巻1号(文藝資料編輯部、昭和3年2月)に「東京市 前田藩札狂 藩札」が掲載されているようだ。

*1:「惇」が正しいと思われるが、『神代秘史資料集成 人之巻』の大内義郷『神代秘史資料集成解題』(八幡書店、昭和59年8月)やネットで読める鶴岡実枝子「『日本実業史博物館旧蔵古紙幣目録』の編集を終えて」『史料館報』57号(史料館、平成4年10月)では、「淳」になっている。

*2:お札博士スタールのトンデモ山脈(その3) - 神保町系オタオタ日記」参照

*3:『集古』辛未5号(集古会、昭和6年11月)の「会報」による。

藪内清を小林信子の静坐社に連れて行った曽我了雲


 近代仏教研究者で曽我量深(そが・りょうじん)を知らない人はいないだろう。一方、同じ曽我でも曽我了雲(そが・りょううん)を知る人はほとんどいないだろう。私も最近まで知らなかったが、「静坐社に参加した福田與の旧蔵書が古書市場にー吉永進一さんの追悼としてー - 神保町系オタオタ日記」で言及した南山大学の研究会でチラリと名前が出たので覚えてしまった。そして、『藪内清著作集第8巻』(臨川書店、令和5年11月)の「有縁の人々」*1を読んでいたら、驚いた。藪内の甲陽中学(甲陽学院高等学校の前身)時代からの友人として、了雲が登場したのである。

多勢の兄弟の末っ子ではじめは新作という名であったが、後に僧職にはいって了雲と改めた。(略)卒業後は姫路高校にはいったが、この時代に人生の問題と真剣にとりくみ、悩み多い青春を送ったらしく、一年留年してしまった。活路を仏教に求め、当時真宗の思想家として有名だった暁烏敏師を北陸に訪ねたり、曽我君が姫路高校ではじめた仏教青年会に招いたりした。こうして同君は京大文学部の仏教学科に進んだが、やはり京大にいた私は毎日のように彼と会い、仏教にはついに縁がなかったが、一緒にローマ字運動をやったり、静坐社へつれて行かれて静坐の仲間に入れられた。(略)京都下鴨の蕪庵の庵主森本瑞明師に信用され、神戸の三宮駅の近くに新築された洋風のモダン寺院をまかされたが、ここでいろいろの講座を開いて、神戸の文化活動に貢献した。晩年は神戸の成徳女子高校の理事長兼校長となり、同校の立て直しに成功したが、いつも仏教者としての立場をつらぬいた。

 戦後京都大学人文科学研究所長となる藪内は、同書の略年譜によると大正15年4月京都帝国大学理学部宇宙物理学科入学、昭和4年3月卒業で同年4月同学部副手となっている。了雲は昭和3年4月文学部哲学科仏教学専攻入学、6年3月卒業なので、了雲が藪内を静坐社に初めて連れて行ったのは昭和3年~6年の間ということになる。
 家蔵の『静坐』(静坐社)昭和11年10月号や18年9月号の裏表紙に掲載された「静坐案内」に光徳寺(神戸市葺合区御幸通6丁目)の了雲の名前があり、静坐の指導者の一人として活躍していたことがわかる。一方、藪内は主に学生時代だけ静坐社に出入りしていたのだろうと思いきや、家蔵の昭和16年10月号の「第十五回静坐実習会記念撮影」(昭和16年8月24日)に了雲と共に名前があった。藪内は、当時東方文化研究所研究員嘱託である。

 曽我は『仏教年鑑:昭和13年』(仏教年鑑社、昭和13年4月)の「現代仏教家人名録」によれば、明治39年3月山口県生まれ*2。国会デジコレで『月刊社会教育』22巻6号(旬報社、昭和53年6月)に訃報が載っていると分かるので、72歳まで生存していたことになる。藪内は享年94なので、いずれも50年も生きられなかった静坐の創始者岡田虎二郎より長生きしたことになる。
 末木文美士先生、吉永さん、栗田英彦先生の尽力で日文研に収まっている『静坐』の揃いは、「岡村敬二先生がブログで大連静坐会について言及 - 神保町系オタオタ日記」で言及したように利用され始めている。オンラインで公開されれば非常にありがたいが著作権法上そうもいかないので、「平安神宮の古本まつりで東寺済世病院長小林参三郎夫人の小林信子宛絵葉書を掘り出すーー『静坐』(静坐社)の総目次を期待ーー - 神保町系オタオタ日記」でも述べたが総目次の作成か、目次だけでもオンライン公開かしてほしいものである。
参考:「昭和通商ベルリン支店長前田富太郎と岡田式静坐法 - 神保町系オタオタ日記」、「九鬼周造「最後の歌」の初出誌としての『静坐』(静坐社) - 神保町系オタオタ日記

*1:朝日新聞夕刊』昭和57年5月31日~6月11日の間に6回掲載された分から「わが道」(同紙昭和45年5月18日~26日の間に5回掲載)と重複する一部を削り、5回分としたもの

*2:「曽我新作」で立項されていて、そのほか昭和7年より光徳寺における大乗仏教研究所事業に従事し、雑誌『光徳』、『法雷』(真宗学研究誌)、『瑞雲』(信仰誌)を編集しているとある。

京都大学新聞の「特集きょうの妖怪Vol.3」に「北白川の仙人『白幽子』」


 臨川書店の古書バーゲンに行った帰りに、京大生協ショップルネへ寄り道。入り口脇に『京都大学新聞』の無人販売台があってふと見ると、5月1日・16日合併号掲載の「特集きょうの妖怪」の第3回が、「北白川の仙人『白幽子』」。そんな連載があったのか、しかも今回は白幽子!早速100円で購入。
 第4面の全面が使われている。北白川の岩穴に住み200年生きたとも言われ、白隠の病気を治したり、富岡鉄斎*1が墓碑を再建し、岩穴前に石碑を建てたこと、更には京都市立北白川小学校編『北白川こども風土記』に載った伊藤寛「仙人になった白幽子」の紹介やその直筆原稿の写真(菊地暁先生提供)まで載っている。北白川仕伏町バス停からの地図(北白川愛郷会提供)も載っていて、至れり尽くせりの特集である。

*1:鉄斎は、今年が没後100年で京都国立近代美術館で5月26日まで記念展覧会を開催中

京都帝国大学の学知を支えた須磨勘兵衛の内外出版印刷ー井上書店の追悼にー


 今年も無事みやこめっせの古本まつりに行けました。目録の巻頭に井上書店の井上道夫店主の追悼文が載っていて驚きました。略歴を要約すると、

昭和21年4月 今出川通吉田神社鳥居の西側に父小三郎が開業
昭和26年7月 現在地に移転
昭和28年12月 誕生
昭和52年8月 父の後継ぎとして古本屋の道に入る
平成14年6月 京都古書研究会代表に就任(6年間)
令和5年11月 逝去(享年69)

 平成29年12月井上書店の店頭に大量の状態の良い内容見本が100円均一で出たことがあった。何回か行って100冊以上買ったと思う。若き日の先代が河原町の新刊書店で貰ったものとの話を聴いた日を懐かしく思い出します。あらためて御冥福をお祈りします。
 今回は井上書店で買った『春錦会員名簿:昭和十年版』(京都府立京都第一高等女学校、昭和10年6月)の話をしよう。同書店が古本まつりに参加していた数年前に買ったもので、500円。名簿は数冊出ていたが、旧蔵者(大蜘蛛某)による表紙への書き込みがある本書を選んで購入。普通の人は書き込みがない方を選ぶが、私は旧蔵者の痕跡がある方を選んでしまう。ある種の病気ですね。
 「春錦会」は、拝師暢彦『京都府立第一高女と鴨沂高校』(拝師暢彦、平成29年2月)33頁によれば、明治38年5月に設置された在校生徒からなる組織で、後に職員が加わった。名簿を見ると、会長は鈴木博也、特別会員は52人で、その後に正会員として本科第1学年1組が続く。
 鈴木の経歴は、『大衆人事録』(帝国秘密探偵社・国勢協会、昭和10年12月11版)によると、京都第一高等女学校長。明治15年11月生で、41年広島高等師範英語科卒、京都帝大文科に学び*1熊本県第二師範校長を経て、大正14年現職である。校長が会長で、教職員が特別会員ということになる。
 生徒の名簿で目を惹くのは、高等科第1学年の「久邇宮恭仁子女王殿下」である。他の生徒はすべてクラス毎に50音順だが、これは1番目に挙がっている。住所は、上京区荒神口桜木町久邇宮邸が荒神口にあったのですね。現在は跡地がKKRくに荘になっている。全然知らなかったが、京都の人は皆さん知ってるのかな。そのほか、川喜多、野長瀬、六人部という苗字を見ると、川喜多二郎、野長瀬晩花、六人部暉峰と関係があるのかなと思ってしまう。このうち、川喜多和香は「川喜田家(川喜田二郎・川喜田半泥子の家系図) | 閨閥学」によると、二郎の妹のようだ。
 奥付を見ると、印刷人は須磨勘兵衛、印刷所は内外出版印刷株式会社である。そう言えば、『沿革と設備概要:附印刷記要』(内外出版印刷、昭和10年5月)を持っていたはずと、発掘してきた。何でも均一で取りあえず買っておくと、役に立ちますね。製造品目と重役が載る頁を挙げておく。

 「沿革」によれば、「京都帝国大学教授諸賢並に有力書肆経営者諸彦の御慫慂により聊か抱負を持し、大正九年四月出版と印刷を業として其創立を見た」とある。また、「当社刊行書目」には、江馬務岡田道一、小川琢治、土田杏村、成瀬無極、本庄栄治郎、三浦周行、山本宣治ら京大関係者の著書が挙がるほか*2、雑誌として次のようなものが載っている。

 「京都帝国大学文科大学(のち文学部)内京都文学会編集の『藝文』ーー『藝文』の卒業論文題目に平田内蔵吉や三浦恒助ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した『藝文』(文学部)や『史林』(文学部)『哲学研究』(文学部)『地球』(理学部)の印刷・発行も任されており、京都帝国大学との深いつながりがうかがえる。内外出版印刷は、高木博志編『近代京都と文化:「伝統」の再構築』(思文閣出版、令和5年8月)の福家崇洋「戦時下の新村出」にも登場していた。新村の名義で昭和8年「ザハロフ『満蒙辞典』の和訳及び補足に基づく満日辞典の編纂」をテーマに外務省の「満蒙文化研究事業助成」に申請がなされ、採用された。成果をまとめた報告書には他日の出版を期すとあり、内外出版印刷の昭和12年2月9日付け見積書(和訳満蒙大辞典上下2冊、各500部)もあるが、現在のところ刊行は確認できていないという。
 この内外出版印刷を創立した須磨については、『京都書肆変遷史』(京都府書店商業組合、平成6年11月)に記載がある。それによれば、須磨が明治41年に創業した印刷業弘文社を大正9年4月大谷仁兵衛(帝国地方行政学会)始め多くの出版業者の出資と協力を得て、内外出版に改組した。初代社長には大谷、専務に須磨が就任した。大正15年2代目社長に須磨が就任して、昭和2年内外出版印刷(株)に改称したという。なお、須磨は、稲岡勝監修『出版文化人名事典:江戸から近現代・出版人1600人』(日外アソシエーツ、平成25年6月)にも立項されている。明治3年京都府生まれ、昭和29年没である。参考文献に『須磨勘兵衛の面影』(昭和31年)が挙がっているが、未見。内外出版印刷は戦時中の企業整備により出版業を止めている*3が、こういう帝国日本の学知を支えた出版社・印刷所の存在を忘れてはいけないだろう。

*1:別途調べると、大正2年京都帝国大学文科大学哲学科教育学専攻卒

*2:須磨勘兵衛が明治41年に弘文社を創業する前に仏教図書出版(西村七平創立)で約10年勤務したためか、青木文教、梅原真隆、佐々木月樵、寺本婉雅、野々村直太郎らの仏教書も多い。

*3:昭和19年企業整備を機に出版を中止して印刷専業の内外印刷(株)に改称した後に冨山房へ譲渡合併された。現在の冨山房インターナショナル印刷部門