モンスターボール100個

インターネットと一緒にあそんで、かんがえる場所

地震と津波と原発と、僕と3.11(長文)

3月11日午後2時46分頃……と正確に覚えているわけではないけど、、

その時の前日誕生日だった、母親の携帯に電話を掛けていた。


良く誕生日を忘れてしまう、基本親不孝者なので
「やべっ」と思いながら掛けたのだけど、

本当に電話、かけて良かった。


あれが最後の電話になっていたかも知れなかったし…


話していて、最近の事やこれからの事を話していたら、
少し揺れるオフィス……さらに揺れる。揺れる。

「ゆれてるっ!」って言葉にして言ったのは、
俺と母どちらも同じタイミングだった。

そして、どちらも揺れが大きくなるのを感じ、

「危ない、避難する。」といって電話を切る。

揺れ始めてから時間が経っていたので外には出ずに、デスクの下に。

まったく揺れはおさまらずドンドン大きくなるのを感じて
「あ、これこれ以上続けば、死ぬかも知れない。」と思った。

そういえば、自然と祈ってた。
「神様、一緒にいてください。」



社長はその時打ち合わせで、
会社に一人だったからよけいに怖かった。


でも、一応揺れながらも、こういった時の対応を速攻iPhoneからググって、速攻ツイート。。 

みんなのリツイートの反応もものすごい早かった。
これが俺がツイッターの便利さを改めて実感した最初の瞬間。



その後、Ustで報道されているテレビの様子を見ると…
津波が、まさに“今”宮城を襲う様子が中継されていた…
走っている車が何台もある中…沖ではでかい第2波が…
必死につぶやいて、あっちに届けば!と思ったけど今思えば、あの時点ですでに電波は届かなくなっていたかも…

外にでると、みんな携帯をしていたから、もちろん電話はパンク。
なので唯一連絡が取れる人達はツイッターやスカイプの人達だった。

その後も続く余震、それに怯えながらも、
後で、社長や社長の友人と合流。

その時は、近くのカフェに避難して
その場で雑炊とかを食べた。






この時点で家族や、
秋田に帰省している友達、
千葉の市原で爆発した石油コンビナートで働いていた友達、
青森の姉、
仙台にいるという親友の妹、
仙台の友達など、
あまりにも多くの人が巻き込まれすぎていて、

そして、故郷である東北が、
どうなっているのかもわからない状況に、完璧放心状態だった。




その日は、友人のレアナの家にて自転車で帰って
晩ご飯をごちそうになり、その後かろうじて動き始めた電車で家に帰った。



家に帰ってきて、ルームメイトとお互いの無事を確認して、
さて……どうしようか……。とテレビをつけて呆然する……。




という所で、いきなり電話がなる。。。
受話器の向こうは中学の頃の先輩でFarewでもある津川さん。

「CNNで通訳をする仕事がはいった。被災地に飛ぶ。お前も行くぞ。」

「え?」


と、いきなりの誘いに戸惑って、、電話ではとりあえずまた連絡取るって事になったんですが、、



自分の中にものすごい葛藤が生まれて、




僕は医者でもないし

自衛隊でもないし、

ボランティアスタッフでもないけれど、




自分がもしも何か、1ミリでも何か出来ることがあるのであれば


今しなければ、一生後悔する……





そう思って、手伝いに加わる事を決意しました。





社長には怒られましたし、
社会人としては失格な行動をとったと思いますが、



人としての自分の道を
曲げなくて良かったと、
そう自分では思っています。




そして、次の日の土曜日の夕方にCNNにいって即空港に。
目的地は仙台市内。


計8名程の世界各地から集まったカメラマンやキャスターの方々と合流。
羽田空港にて。しかし、飛行機はすべて運休。次の朝のしか空いていない。

なので、羽田空港の近くのホテルに1時頃チェックイン。
そして、朝は4時に羽田から山形へ。

仙台空港は沈水してしまっているから、
山形から入るしか無かった。




とにかくこの日中に、被災地の様子を抑えなければいけなかった為
何人かあったチームの中から僕のチームだけ先に現地に突っ込んで
状況を確認し、他のチームが補給物資をもって後から来ることに。

少しその前に、カメラマンの防寒具を揃えるために、JUSCOに。
お金がドルしか無かったのであまり高い防寒具が買えず困っていた。
そこで状況を説明して、リニューアルをしていて空いていなかった
あるアパレルブランドのお店に掛けあってみたらなんと
「好きな奴を選んで、持って行ってください。」
とのお言葉を。。

人の奥底から来る温かさをひさしぶりにかんじました。


また仙台に向けて走り始める。行き先もよく分からない。
そして、現地の状況もまったく分からない。そんな不安の中進む。

山形と仙台の県境の山道ではところどころ土砂崩れが見えるものの
そこまで被害があったとは思えない。

でも、県境を超えた瞬間電波が途切れる。


そしてコンビニが全て空いていない。


かろうじて空いていた一軒には、ほとんど残っているものがない。


外の薪ストーブで、ファミチキを揚げて売っていた。

そこから、だんだんと道路にヒビがはいってあったり、
段差が激しかったり、工場が崩れていたり……


そして景色が一変し始める。

道路の両側には車が津波の影響で山積みになってそこらじゅうに……
屋根に車がのっていたり、道路に不自然にコンテナがあったり。

この更に海岸側に行こうとすると、消防隊の人が
「ここから先は、本当に死体が転がっていたり、遺族の方がいるから
遠慮してくれないか。」と近寄ってきた。

僕らが居た場所にもすでに、泣き崩れている遺族の方々がいた。


ここの景色も、空気も、人の悲しみも、


何も言葉にならない。



その、どうしようもない感情をただ心で噛み締めるしかない、、

とても、、とても冷たく重い世界に立っているのが精一杯だった。




と、途中でなる消防車のサイレン。

大声で叫び出す、消防隊員。

「5Mの津波が来るぞ!!!!!!」と避難をし始めた。

しかし、報道の立場としてはその場面をカメラに収めなければいけなくて、
俺に「お前がいなきゃ何が起こってるかわからないからついてこい!」って言われた。


正直、マジで怖かった。

下手したら、逃げ遅れて死んでしまう。って思った……

なのに、さらに奥に走って行って、
逃げる自衛隊や消防隊、逃げる家族をカメラに納めるカメラマン。

その状況をすぐに察知し、僕に警報が何を言ってるのか確認し
すぐにレポートを始めるキャスター。


“命がけ”だった。


この、ぎりぎりの状況で、
この緊張感とこの現状をすべて世の中に伝えなきゃいけない。


それが使命だった。


正直日本のマスメディアにはガッカリしていたし、
海外のニュースもろくなものがないと思っていたから、
報道にたいしてはあまりいい印象を持っていなかったけど

彼らのニュースは、現実をそのまま映しだす報道だった。


だから、何が起こるか分からないし、僕らも怖いし、
命の危険を覚悟した。


ドライバーは、もう怖くなって半分車を走らせながら
僕らに叫ぶ。「危ないから早く乗れ!!」


やがて、川の水のひきも結構はっきりししてきた為、
車に乗って安全なところまで逃げる。


全ての消防車、自衛隊の車両、警察、住民が
急いで逃げてる……本気で。

でも、警察の誘導をきかず、逆方向に行く者もいた。


とりあえず、逃げながら、近くにある高い建物を確認する。
万が一の時のために……


3キロぐらい内陸に走って。様子をみる。




結局、幸いなことに津波はこなかった……





あとで消防隊に聞いたら、
津波の情報元は“不明”。

誰がどこから入った情報かは分からない。

ただ、そういう情報や、川の流れが危ないと感じたら、
情報元を確認している暇などなく、みんなを毎回避難させなければ
いけない状況だと言っていた。

だから、毎回総出で避難を呼びかけて、動いている。


そんな情報が錯乱して、仙台は混乱状態だった。






あの場所で、「もぅ、家さがしても何処にもないんだもんなぁ……」
と泣きながら消防隊員と何かを探していた男性の姿が焼き付いてはなれない。



すこししてから、仙台の海岸沿いの工業地帯に立ち上る
煙が見えたので、そこに行ってくれとの指示が。

嫌だ。。。とちょっと思った。


爆発するかも分からない。石油コンビナートらしきものの近くだったから。
というかじゃないとあんな大きな煙はでないし……火も燃え続けていた……

でも、誰が消火をするわけでもなく放置状態。
周囲半径1キロぐらいはガソリンを鼻の下に直接塗ったような匂いがした。

そしてヘドロの匂い。コレは被災地どこにいっても同じ臭がした。

気持ち悪い。。

ドライバーさんに、マスクをつけろ。と言われてマスクをつけた。でも臭い。。。少しはましなのかもしれないけど。


そして、車を降りてさらに爆発している場所がはっきり見えるところに近づいていく。

途中には、引火して爆発したときに飛んだのだと思われる
油?みたいな物がすごい塊でそこらへんにヘドロみたいに飛散していた。

これも臭い……



カメラマンとキャスターはそこでの映像を撮り終えたあと、
爆発を背景に写真をとっていた。記念写真だ。


「なんて不謹慎な。」と思ったけど、僕も誘われて撮った……

なんだろう、彼らはこういった場でも自分たちの中で精神的なバランスを保つ為に
わざとリラックスするのかもしれない。ちょっと後でそう思った。。

その時の映像がこれ。
http://edition.cnn.com/video/data/2.0/video/world/2011/03/13/pkg.Sendai.Japan.tsunami.warning.cnn.html

その後、市内を離れ、さらに海沿いに近づいていった。
そして上の動画に出てくる最後のシーンの場所に辿りつく。


でもその前に、小学校の避難所に寄ってみた。
そこには周辺の地域の人が避難していたんだけど
顔が、とっても、とっても疲れていた。

何人かに話を聞くと、
ここらへんでは津波とか災害の時に対応するように
小さいエリアごとに班を決めていて、
何かあったらその班のリーダーが見まわって小学校に避難するように
なっていたらしい。だから、助かった人も多かったみたい。

ただ、わがままをいったり、頑なに非難しなかった人もいたそうだ。

僕が話を聞いたおじいさんは、
虚しさや、もどかしさ、そして不安と苛立ちをもみ消そうとするかの様に

「あんなやつは、わるいけど死んでもしょうがないって思ってるっ……。」
と言い捨てた。。


この時点では、電気、水道、電波が仙台市内しか機能していなくて、ガスは全域で停止。
だからみんな車のカーナビでテレビをみて情報収集していた。

だから少し離れた周囲の状況は全くつかめていない。

何処が無事で、物資は、救済は?

不安を抱えきれない、困惑した状況だった。。

日も暮れ始め、、僕らも市内のステイ先に戻らなければ行けなくなった。


その途中で、別ルートで帰ろうと思ったら、
道が水没していて300mくらい先まで水没していた。。

なのできた道を辿りつつ、車は進む。


夜は、街灯がないのでまっくらな瓦礫だらけの道を
ヘッドライトだけで進む……。


とても、とても長い一日が終わった。

ホテルに着いたのは23時。
ホテルには他にも沢山のクルーが集まっていた……。

この日、ご飯はまともに食べていない。

夜も食料が不足しているため、お菓子ぐらいしかない。

ちょっと、キットカットとビスケット、チョコレートとかつまんで寝る。


翌朝4時、朝起きて早朝からさらに被災地を走る。

道路の両脇にある店という店に突っ込んでいる車…
ライトもないと尚更怖い。

ここらへんで、中継をする事になる。
車を降りた。

僕もちょっとだけ、とった。電波が悪くて長くはつづけられなかったけど。
http://www.ustream.tv/recorded/13308209

だんだん市内に向かう人が増えてきた、
殆どの場合、状況の把握。

自分の働いていた店を見に来た人もいて、唖然としていた。

また車に津波に流されて、水に完璧に飲まれた後に
運良く水圧から解放されてドアが開けられて、
車にしがみつきながら、流れてきたタイヤにしがみつき、
運良くさらにちかくにあったアパートに柵につかまって、
一命を取り留めたおばさん…

たまたま市内に出かけていて、助かったおじいさん……

色々な人のお話を聞いても、何にも言葉がでてこない…




中継した少し奥にある場所も壊滅状態……
ここでも、その日3人の遺体が確認された。

若い警察の方が、ブルーシートと棒をもって
おぼつかない脚で遺体を確認しに行く……


俺はそこには近づけなかった。

怖かったし、

興味本位でご遺体を見ては絶対にいけないと思った。





そして、前日に行った海岸沿いの方に戻った。
今回はキリンの工場があるエリアに。

そこには、大量の缶がちらばっていた。

住民の方達が車と、箱を持ってきて、
缶を必死に集めていた…

話を聞くと、水を補給する場所も、
治安が悪く、順番を守らずに喧嘩になったりなどしていて
大変らしく、みんな自分達の飲料を確保するために
ここから拾っているとの事。。

僕が話を聞いた人達は、両腕刺青の人達だった。

ちょっと、僕らが話だけ聴きにきてるのが気に食わないみたいだった。。


また、津波警報が鳴る。。


僕は、ビールでやまずみになった箱を車に運ぶのを手伝って、
「警報がなっていますから、気おつけてください。」
とだけ伝えて、その場をさった。

それが良い事なのか、なんなのかわからなかった……

なんか話だけ聞いて、警報なったら立ち去るって……なんかとてもジレンマを感じた……

無力さを感じた……

その後、映像の編集の為にホテルに戻る。
そこで仮眠……を……

その日は……夕方から東松島の方に向かった。

東松島はもっと深刻だった。

本当に、水没という状況。

その現場に早めについていた違うクルーの通訳をやっている先輩は
泥からご遺体が一部だけ見えた状態が確認できたという……

ここも、車や家が酷い。

どうやってかはしらないが、生き残った雌鳥が僕らに近づいてきた。
掴んでも逃げない……

途中で牛を連れて移動するトラックが通り過ぎた。

ここらへんは農家がたくさん住んでいたんだろと思う。。

また、自分が遺体をみるゆうきはなく、
東松島の現場での中継の手伝い。


夜の23時ころまで続く。



ここ松島と言えば、僕が小学校の頃
6年生全員で修学旅行に来た場所。

初恋の子や、親友の子とか、
俺がNZにいく前の、日本での貴重な思い出が詰まっていた
場所が跡形もなく無くなっている。。

でも、もう何処が無くなったのかなんてわからない。。全てだ。。



ただ、そんなことも実は考える余裕もなく、
疲れきって、、また暗い道をホテルに向けて走らせた。。

途切れ途切れ、確認できるツイッターが僕の“ライフライン”だった。


この夜は、スタッフの人に
インスタントラーメンをお湯なしで食べる事を教えてあげた。

チキンラーメンだったから、粉々にすればチップスみたいに食べれる。

みんなでそうやって食べた。
それでもとっても、とってもおいしく感じた。


ホテルに着いたら、
おにぎりを友達になった同年代の通訳の子からもらった。



くそ美味しかった……




で、この夜
僕ら報道スタッフがこれから取材を続けるには
物資が足りなさすぎるということになり、
ついてきてもらったドライバーさんに一度山形に帰ってもらい、
2tトラックに物資を積んで運んできてもらうことになった。


その手配を僕とドライバーさんと外国の局のスタッフさんとやりとりした。
疲れた……


次の日は、今日の朝と同じ場所で中継ということだけ言われ眠りにつく。
明日も4時らしい。



次の日は結局起きれなくて、起こされた……。
で、早速支度して乗り込む。


そして、同じ場所で中継。


途中で興味を持った兄ちゃんが話しかけてきたり。。
僕らに「大変だろ」といってポテチを差し出す……

いやいや……!!といって逆にホッカイロを渡そうとするけど
他の人にあげてくれって言われる……

あんたどんだけいい人なんだよ……



パチンコの換金所まわりは荒らされてるし、
コンビニも、自転車も全部盗難にあっていた。


テレビで放映された日本の美しさは、
東京での話で、本当に被災した現地では
モラルなんて言うのはとっくに崩壊していた。



そして、途中になっていきなり本部から連絡が入り
原発が爆発して放射線がやばいから仙台から今すぐ退去しろ。との命令が。


その日の予定を全て打ち切り、
ホテルに戻ってすべて荷物を詰め込んで出る。


昨日おにぎりくれた子のチームは福島を目指していたから、
すごい、すごい心配だった。。結局、福島にはいってなかったので良かった……


警察に高速を使って移動するために、
緊急車両の許可書を取りに行った。

一軒目は訳の解らんじいさん警官が出てきて、
CNNがわからないから、許可書をだせないだの
日本での提携先は?だのほんっとうに訳の分からない意地悪をしてきたので
キレて出て行く。

そして違うところで3分かからず入手して、高速に。



ここで、昨日手配しておいた物資が余ることに気づく。

その物資が無駄になってしまうのではないか……
もしそうならば、是非届けたい……
(と思ったのが、前の記事の南相馬市行きにつながる)

と思ったけど、そんな事よりもまず退避だった。


その時の高速道路の利用数はほぼ皆無。
支援を個人レベルですると迷惑だから!という教訓は
東北3県を壊滅に追い込んだ今回の震災では逆だった。

もっともっと、早急な救援物資の到着が必要だった。
そう思う。


その後、秋田に避難しそこからの中継。

そして翌日、東京にそのまま。


東京は少しゴーストタウン化っぽかったけど、
まったく違う場所に連れてこられた感じがして、

温度のギャップを感じて、
すこし苦しんだ。



その夜は確か、、人一倍でかい月が出ていた。



僕は結局、自衛隊や消防隊員、救急隊、赤十字などと比べれたら
あまりにも無力で、ただ現地入りして、自分の身を守りながら帰ってきただけだった。

なんか、とても嫌な自分のようきがした。

何かした気になっている、でも実際救えたわけではない……



なにか、戦争から帰ってきた兵士が感じたものとはスケールが程遠いかも知れないけど

この自分の無力感が僕を包んでた。





そして、それよりも僕には今までの日常で僕が追い求めてきた
あらゆる“欲”がとても虚しい物に見えた。





まだ何も終わってなくて、原発に関しては良くなってるとは決して言えない状態。


もっと“命”を大切にするかしないかレベルで、
僕が気おつけているべきだった事柄が沢山あったはず。。


そこをないがしろにして、
この世の名誉や誉れに少なからず囚われていた。。




これだけの大きな地震津波原発に、



僕は全てを引っくり返された……


尚、生かされているこの生命で、




僕らが残されている時間、時代で、



何をしなきゃいけないのか?






それは何か、少しずつ見えてきたような気がする。




大切なモノを失った方達のかおや、ふるさとの光景を見てきて、

それを思い出すとき、僕は何を大切にしなきゃいけないのかを
硬く持ちつづけて生きて行くことに揺るぎない意義を感じます。。




















この僕を突き動かしてくれ、勇気と、信じて進む信仰くれた神様と、
サポートしてくれた友人、知人のみなさん、
祈ってくれたみんな
僕のわがままをきいてくれたすずきさん、たけださん



深く感謝致します。





そして、東日本大震災でお亡くなりになった方々、
そして被災者の皆様、その親戚ご家族のみなさま、

心からお見舞い申し上げます。




僕らが出来ること、必ずやっていきます。