第77回 株式会社ファジアーノ岡山スポーツクラブ 木村正明

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第77回
プロフィール 株式会社ファジアーノ岡山スポーツクラブ 代表取締役
木村正明 Masaaki Kimura

1968年、岡山県岡山市生まれ。小学時代は野球少年。中学でサッカーを始め、競技の奥の深さにのめり込む。以来、37歳になるまでプレーを続けた。高校 卒業後は東京大学法学部へ進学。父の急逝により、大学時代は生活費を稼ぐバイトに明け暮れた。1993年3月に同大学を卒業。最高の成長機会を求めて、 ゴールドマン・サックス証券に入社する。熾烈な競争に勝ち残り、2003年、35歳でゴールドマン・サックス証券のマネージング・ダイレクター(執行役 員)に就任。社員の採用責任者も務めるように。2004年、地元・岡山の同級生から、ファジアーノ岡山の運営資金の寄付を依頼される。そのことがきっけと なり、2006年、Jリーグを目指す同クラブ株式会社化の際、今度は社長就任の要請が届く。さらなる成長機会であると、その申し出を引き受け、ゴールドマ ン・サックス証券を2006年5月に退社。同年7月に設立した株式会社ファジアーノ岡山スポーツクラブの代表取締役に就任した。

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ライフスタイル

好きな食べ物

餃子&ビール。
ゴールドマン・サックス勤務時代は和・洋・中・韓、東京のあらゆる名店に通っていました。相当くわしくなりましたが、結局自分は餃子とビールの組み合わせが一番好きであることに気づきました。今でも一度に60個は軽く食べられます(笑)。

趣味

格闘技観戦です。
格闘技観戦ですかね。最近はなかなか直接試合会場で観戦できていないのですが……。ちなみに、総合格闘家の田村潔選手は岡山出身で、彼のお兄さんは地元で「温石(おんじゃく)」という割烹を経営しています。僕の高校サッカー部時代の親友でもあります。

最近感動したこと

昨年のファジアーノ岡山ホーム最終戦。
昨年、ファジアーノ岡山のホーム最終戦で1万人以上の方がスタジアムに来場くださった時です。 取材に来られた地元の記者の方々が感動して泣いているのを見て、僕もじーんとなりました。それが日常となるよう、これからもみんなで努力を重ねたいと思います。

ほっとする瞬間

旧友たちとの飲み会。
大学時代の男友だちと集まって飲んでいる時です。みんなの奥様・彼女さんから見ると、いつも同じ話しかしてないそうです(苦笑)。でも、気づけば私も含め、みんな働き盛りの年代なんですよね。おじいさんになったら、昔のようにみんなで旅行したいなあと。今から楽しみにしています。

外資系証券会社幹部が、瀕死のサッカークラブ経営者に。
地域リーグから、創設3年目にJ2に昇格させる!

 日本のサッカーリーグにはJ1からJ9までが存在し、約8300ものチームが毎年しのぎをけずっている。うち、J1、J2がプロクラブと言われ、J3のJFLを含め、50~80のクラブがプロクラブ化を虎視眈々と狙っているという。そんな競争の激しい世界で、創立3年目にして、地域リーグからJFL、そして昨年12月、とんとん拍子にJ2昇格を決めたのがファジアーノ岡山である。ちなみにファジアーノとはイタリア語でキジという意味。岡山ゆかりのおとぎ話“桃太郎伝説”に登場する鳥の名前から付けられた。ゴールドマン・サックス証券の執行役員という、誰もがうらやむ地位を捨て、設立当時、資本金500万円のファジアーノ岡山スポーツクラブ代表に就任したのが、木村正明氏だ。「人生は一度きり。岡山への郷土愛と、恩返しを志に、挑戦を決断しました」と語る。今回は、そんな木村氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<木村正明をつくったルーツ.1>
小学時代は野球、中学からはサッカー。真面目な中学時代には生徒会長も経験

 生まれ故郷は岡山県、岡山市です。男ばかり3人兄弟の長男で、かなり活発な少年時代を送っていました。父は衣料品問屋、駐車場、カラオケボックス、雀荘など、手広く商売を手がける事業家。母は忙しい父の仕事を手伝いながら、僕たちを育ててくれたんです。そういえば、カラオケボックスって岡山が発祥なんですよ。知ってました? で、小学生時代の僕がはまったのは、野球です。背は低かったのですが、学校一、足が速くて、肩もけっこう強かった。4年生からはリトルリーグに入って、広島や大阪へ遠征試合に出かけたこともありました。確か当時の岸和田リトルには、清原和博さんがいたんですよね。僕らのチームも全国大会でベスト4とか8に入る強豪。ポジションはピッチャーかショートでしたが、結局、最後までレギュラーにはなれませんでした。

 僕が通った岡山大付属小学校は中学まであって、小学校の入学に際しては、運動能力と簡単な知能テスト、あとは抽選のくじ引きでした、確か。ある意味で国立の付属は実験校ですから、1年と2年の複式学級とか面白い試みにトライしてましたね。ずっと野球漬けの毎日を送っていましたが、中学からはサッカーに鞍替え。野球部が無かったんですよ。当時は今ほどサッカーが盛んではありませんでしたから、単純に一番大きな部だったから始めたようなものです。ただ、奥が深くてどんどん面白くなった。野球はすぐにうまくなれた気がしたけど、サッカーはなかなかうまくならない。うまくなりたい、うまくなりたいという思いでサッカーにのめり込み、結局37歳になるまでプレーし続けるんですよ(笑)。

 足が速かったので、ポジションはずっとフォワード。岡山市の中学選抜選手にも選ばれました。が、倉敷市とか玉野市とかのほうが強いんですよね。チームは県大会に進むのが精一杯って感じでした。スポーツに励みながら、勉強も中学まではできるほう。先生には模範的な生徒に映ったのでしょう。常にまじめであることを意識付けられていました。生徒会長もやりましたし。だから、中学時代はじっと我慢をし、人生のパワーを蓄積していた3年間だったと思っています。

<木村正明をつくったルーツ.2>
「医学部に進み医者になれ」が父の願い。ビジネスの道を志し、決死の説得に成功

 もう廃止されていますが、当時の岡山県は総合選抜という方式を高校受験に取り入れていました。試験に合格したら、岡山5校と呼ばれる岡山市内の高校に振り分けられるという。幸いにも僕は、もっとも行きたかった伝統校、岡山朝日高校への入学が決定。父は昔から僕に医者になれと言っていたんです。だから高校ではサッカーは禁止だと。入学時はその教えを守っていたのですが、6月に日本リーグの試合が岡山で開催され、ジョージ与那城さんが所属していた読売クラブのゲームを観戦に行った。それで興奮して、もう我慢しきれなくなって、母にこっそり相談したら「そこまで言うならやっていい」と。再びサッカーを始めることができました。父も本当はわかっていたのだと思いますが、何も言わずにいてくれたんですよね。

 サッカー部には顧問の先生がいなかったんです。だから、みんなであーでもない、こーでもないと考えながら一所懸命練習しました。僕はといえば、この頃どんどん背が伸びて、パワー型のフォワードに。部活動にも励みましたが、練習が終わったあとも、もちろん週末も友人達とつるんで何かしら遊んでいました。いくつか恋もしましたし。もういろんなことが楽しかった。おかげで入学時470人中30番くらいだった成績はいっきに急降下。300番を行ったり来たりというていたらく。岡山大学の医学部に行けと言っていた父とは、文系・理系の選択を迫られる1年の終わりに話し合いました。

 祖父が早くに亡くなったこともあり、死ぬ時にいかに幸せな人生だったと思えるか考えていたんです。人生は一度きり。岡山を出て、違う世界を見てみたい。確かに医者も世の中に貢献できる素晴らしい職業ですが、高校1年で今後の人生を決めてしまうことに不安があった。自分の可能性を広げるために、もっといろんなことを経験してみたい。父が事業家だったことも関係していると思いますが、さまざまな人たちとぶつかり合いながら自分を成長させていくビジネスの世界に進みたいと。そんな思いをぶつけ、何とか父には納得してもらったんです。

<父の死を乗り越え、東京大学へ進学>
父の急逝により、仕送りはいっさい停止。3つのバイトを掛け持ち、生活費をまかなう

  3年で部活を退いた後、同級生たちはいっせいに受験モードに。担任の先生に東京大学を受けると宣言したら、かなり驚かれました。なんせ470人中300番台をうろうろ、ですから。おまけに、さあ勉強と机に向かうのですが、3時間くらいで集中力が切れてしまう。正直、こりゃ1年目は記念受験だなと(笑)。ちょうどセンター試験が導入された年で、東大法学部の足切りはクリアしましたが、本試験ではやっぱり不合格。それから東京での浪人生活に突入するんです。浪人1年目の年末、父が倒れました。仕事に忙殺されて、毎日3時間睡眠の生活を続けていたそうですから、その疲れがたたったのでしょう。そして、翌年の春にあっけなく逝ってしまった……。猛烈に太く短い人生だったと思います。結局、僕は2浪の末、東大に合格しましたが、父に親孝行できずじまいだったことが今でも残念でなりません。

 父の事業には多額の借金が残っており、実家からの仕送りはストップ。大学入学後は、生活費を稼ぐためバイトに精を出しました。トラックの運転手に家庭教師。一番印象に残ったのは、NHKの受信料の集金と契約でした。断固支払いを拒否する人っているでしょう。その方たちに時間をかけ理解していただく仕事です。当然、最初は「絶対に払わん」なのですが、20回目くらいの訪問から態度が軟化し始めて、40回目くらいには「お前には負けたよ」となる。そうやって一所懸命お願いをし続けるわけです。僕は下北沢と代沢エリアを担当し、しらみつぶしに歩き回りましたが、大変得難い経験をさせていただいたと今でも感謝しています。

 時間が取れず、体育会のサッカー部には所属できませんでしたが、2年次から練習回数の少ない準体育会に加入。ちなみに就職後も、東大サッカー部OBを集めたチームを結成し、東京都社会人リーグでプレーを続けました。チームは4部からスタート。10年かけて1部に上がり、今も後輩たちは仕事と格闘しながら頑張っています。僕は、岡山に帰る直前の37歳まで現役を続けました。引退した時は当然ですが、最年長でした。大学時代の話に戻しますが、1年次に同じクラスだった10人くらいの同級生と、男だけで行く年2回の旅行は最高の思い出です。小笠原とか、沖縄とか。彼らとは今でも連絡を取り合っていますし、この付き合いは一生変わらないでしょうね。

<ゴールマン・サックス証券へ>
大学卒業後、多くの候補の中から最高の成長機会を求め、外資系金融へ

 早く社会に出たいという思いは強かったです。でも、就職活動はちょっと遅めのスタートでした。5月にソロモン・ブラザーズに入社した大学の先輩から「面接を受けてみないか?」と声をかけてもらったんですよ。ちなみに僕ひとりだけ私服で面接に行ったので、怒られましたが(苦笑)。その方から「ゴールドマン・サックス証券ものぞいておいたほうがいい」とアドバイスされた。「ゴールドマンか。なるほど」と思いながら、その後、官僚、弁護士、ほかさまざまな企業に勤務するOBに会いまくりました。延べでいえば200人以上にはお会いしていると思います。もちろん、ゴールドマンにも面接に行きました。現・マネックス証券代表の松本大さんなど、あり得ないくらい頭が切れて、強烈に個性的な方々が働いているわけです。ものすごいパワーを感じました。

 もちろんソロモンも素晴らしい会社ですが、そこで働く方々に何となく自分と似たような雰囲気を感じたんです。でもゴールドマンは、明らかに僕の知らない世界観を与えてくれそうでした。自分にないものを持っているパワーあふれる先輩たちにもまれながら働けば、確実に成長できるだろうと確信。そして1992年の7月末、無事に内定をいただくことができました。その日、広尾のすし店でお祝いしていただいた席で、「じゃあ明日から朝6時に出社するように」と。冗談かと思ったら本当だと(笑)。で、実際に内定翌日から僕は東京・六本木のオフィスに通うことになるんです。

 毎日会社に出ていましたが、実は大学卒業に必要な90単位のうち、なんと58単位が残っていました。「このままのペースで働いていては卒業できません」と会社に報告したのですが、「大丈夫、大丈夫」と。が、翌年の1月になって東大卒の先輩が、「これは本気でまずい」とやっと気づいてくれ、なんとか仕事から解放された。それから大学受験の時以上に必死で勉強して、卒業に必要な単位を取得。念願のゴールドマン・サックス証券で働くことになるのです。

私財をつぎ込み経営継続も、現在まで無給状態は続く。
郷土愛と恩返しを原動力に、不退転の覚悟で走り続ける

<執行役員に訪れた人生の転機>
久しぶりに再会した同級生から大胆な頼み事。「サッカークラブに100万円寄付してくれ」

 1993年、無事にゴールドマン・サックス証券に入社し、僕が配属されたのは外国債券部。ディーリングではなく、営業の仕事に就きました。意識レベルが非常に高く、強い個性を持つたくさんの先輩後輩とたちと切磋琢磨しながら働き、超一流企業と取引し、海外とのやり取りもこなし、結果を残す。そして、結果を残すことができれば収入もポジションもどんどん上がっていく。毎日が気を抜けない真剣勝負。常に成長し続けなければ生き残っていけない、厳しくも僕にとっては最高の職場環境でした。

 振り返って考えてみると、ゴールドマンのすごさは、ひとりひとりの能力の高さもそうですが、マネジメント力の強さにある。マネージャーは世界でも指折りのコーチの指導を受け、プレッシャー時に自分がどう動くタイプなのか、まずは己を知る。そして、自分の部下はどんなタイプか、上司はどうか、必死で考える。個として優れたビジネスパーソンが、最強のマネジメント力を身に付けるわけです。そして変化スピードの早い金融マーケットに対峙しながら、時には各5人のチームが集まって30人のチームになったり、ある時には特命でひとりがあるミッションに取り組んだり、マネージャーはこのアメーバのように姿を変えていく組織の中で結果を出す。私自身も、たくさんの得がたい貴重な経験が積めたと感じています。そして僕は35歳になり、ゴールドマンのマネージング・ダイレクター(執行役員)に就任。社員の採用責任者も務めるようになっていました。

 2004年、岡山時代に野球もサッカーも一緒にやっていた同級生の森健太郎君が私を訪ねてきました。「ファジアーノ岡山というサッカークラブの運営にかかわることになった。資金が足りないので100万円寄付してくれ」と。僕は単純に生まれ故郷の活性化に役立てることが嬉しくて、その申し出を快く引き受けたのです。彼はしっかり者で、仲間を裏切らない信頼できる男でしたしね。寄付をしたら、やはりチームの状態が気になるじゃないですか。森君からはその後も連絡をもらっていました。そして2006年の2月に、今度は「ファジアーノ岡山がJリーグを目指すことになった。そのために株式会社化する必要がある。社長に就任してくれないか」と打診されたのです。人生の転機のきっかけは、地元・岡山の親友が運んできてくれたんです。

<岡山県へのUターン起業>
社長就任後の急務はスポンサー収入の確保。営業努力が実り、2年で45倍の収入増!

 ファジアーノの運営にはもうひとり、同級生の工藤恒一郎君も参加していました。実は、森君と工藤君のご両親には恩義を感じていたのです。父の死後、母は家計を支えるため、保険の外交員に。その際、ふたりのご両親は母がノルマを達成できるよう、大口の契約をしてくださっていました。そんなこともあり、母からずっと「いつか必ず恩返しをしてほしい」と教えられていたのです。ゴールドマンには14年在籍し、会社には十分貢献できた。そろそろ次の成長機会を探そうと考えていたタイミングでもありました。ちょこざいなプライドですが、別の外資系金融企業を渡り歩くような、仁義に反することはしたくなかった。サッカークラブの経営には興味がありましたし、生まれ故郷への貢献と、恩返しができる絶好の機会でもある。人生一度きり、やらずの後悔は絶対にしたくない。そして、お世話になったゴールドマンを5月に退職し、僕はファジアーノの社長に就任する決断をしました。

 まず、2006年7月に資本金500万円で株式会社ファジアーノ岡山スポーツクラブを設立。しかし、経営状況を調べてみると、1000万円を超える負債があることがわかりました。さらに就任した2006年度の収入は、スポンサー6社から400万円、運営に必要となる支出は2400万円。プロサッカークラブの収入は、スポンサー収入、入場・会員収入、放送権収入、グッズ販売などの収入、選手の移籍による収入の5つ。でも、動き始めたばかりのファジアーノにはスポンサー収入を得るしか道はないのです。そこで同級生たちに声をかけ、緊急スポンサー募集の協力を仰いだり、地場の大手広告代理店、新聞社、テレビ局、ほかさまざまな企業に支援いただけるよう、企画書をつくって必死で営業に駆けずり回りました。そしてもうひとつ、資本金の増額も急務の課題です。出資比率と、株主の顔ぶれに気を使いながら、挨拶に回る順番も角が立たないように細心の注意をもって動きました。

 私自身がゴールドマン出身ということもあり、活動を始めた頃は「ホリエモンや村上ファンドみたいに何かたくらんでいるんだろ」と勘ぐられ、「まずは儲かる株を教えてくれ」と頼まれるなど、さまざまな紆余曲折も経験しました。でも、徐々に地元のみなさまの温かいご支援をいただけるようになり、おかげさまで2007年度の収入は9300万円、2008年はスポンサーを260社まで増やし、収入は2億円を超えました。それでもJ2平均予算が12億円ですから、まだまだ足りません。だからまだ私は無給のまま。個人で資本金の増資も行っていますから、貯蓄はどんどん減っていく。正直かなり怖いですが、クラブが安定した財務基盤をつくれるまで、不退転の覚悟を持って経営を続けていくつもりです。

<未来へ~ファジアーノ岡山スポーツクラブが目指すもの>
「岡山出身です」、「ファジアーノのある県ですね」と言われるクラブを、県民と共につくり上げていきたい

 2006年、JFL昇格を目指していたファジアーノは、中国リーグの優勝を勝ち取りましたが、各地域リーグの覇者が集う全国地域リーグ決勝大会で3位の結果。で、惜しくも地域リーグに残留。しかし翌年は、地域リーグとしては異例のJリーグ準加盟を果たし、地域リーグ決勝ラウンドでも優勝。念願のJFL昇格を果たします。そして昨季の2008年、JFLの4位に入り、なんとJ2昇格が決定。もちろんこの結果は選手、スタッフが全員で号泣するほど最高に嬉しかったのですが、一抹の不安も感じました。僕は地元に根ざしながら100年以上続いていくクラブをつくりたい。そのためにはひとりでも多くの岡山県民が、勝利する喜び、時には敗れる悲しみの両方をしっかりと共有し、人ごとではなく“我がクラブ”という、ひとりひとりの強い気持ちで支えることが大切だと思っています。

 ちなみに、J1クラブの年間平均収入は年間30億円、J2は12億円。それに対し、ファジアーノの来季収入は4億5000万円を予測。不謹慎な言い方になるかもしれませんが、サポーターの強い気持ちの醸成、経営体質の強化という土台づくりをしっかり行ってから、J2に昇格したほうが良かったのかもしれません。ただし、着実に地域のみなさまに受け入れられつつあることは実感できています。実は、ファジアーノ33人の選手の約半数が、月給10万円以下なのです。でも、地元のスポーツジム、アパート、銭湯、食堂、美容院、病院などにサポートいただき、選手たちは無料で利用できる。ですから、生活費を大きく抑えることができる。本当にありがたいことです。

 高校を卒業し、岡山を離れてから、「岡山出身なんです」と人に話して、一度もかっこいいと言われたことがありません。たとえば隣の広島県で男ふたり集まれば、「なんで新井は阪神に移籍したんじゃろう」「サンフレはJ2落ちてもレギュラーほとんど残ったのう。立派じゃ」と、カープやサンフレッチェの話題で盛り上がる。僕が小学生の頃、広島に野球の遠征試合に行ってゲームを終えた後、相手のチームの子どもたちが、「これから自転車で市民球場へカープの試合を見に行くんじゃ」と盛り上がっているのがとてもうらやましかった。日常生活の中にプロスポーツが存在することって、とても素晴らしいことなんですよね。これからも、岡山で生まれ育った人たちが「岡山出身です」と話したら、「ああ、ファジアーノのある県ですね」といわれるようなクラブを、地元の方々と一緒につくり上げていきたい。クラブは生活に絶対必要なものではないですが、日常生活にひとつの豊かさを与えてくれるものであり、それを求めている人たちが必ずいると信じていますから。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業には想像以上の苦しさが待ち受けている。人生一度きり、悔いを残さぬよう、闘おう!

 僕の場合、生まれ故郷に足りないものを根付かせたいという郷土愛と、さまざまな恩返しの気持ちが起業の原動力となっています。岡山出身というと「はあ?」という反応がほとんどで、素晴らしい街なのに印象が薄い。ちなみにすべての新幹線が止まりますが、これもほとんど知られていません。でも、ファジアーノ経営の話を持ちかけられた時、この世というタイミングで、日本のこの場所に生まれたことって、ものすごい確率の奇跡だと思ったのです。だったら目の前のチャンスに挑戦すべきだと。ただし、クラブ経営は小手先の成功ではなく、続けて行くことに意味があります。僕が死んでもずっと残り続けてほしい。だから、選手やスタッフには「今は苦しいけれど、いつか立派なクラブハウスができて、その壁に自分たちの写真が飾られている。それを自分の子どもや孫たちが見て、『これは僕のおじいちゃんなんだよ』と自慢している。そんな未来を夢見て頑張ろう」と話しています。岡山にゆかりのあるすべての方々にとって、ファジアーノがよすがとして機能してくれればいいなあと思うんです。

 東京や大阪など、都会からUターン起業を希望する人も多いと聞いています。僕は高校を出てから東京で約20年、生活を続けました。岡山よりも長く生活をしたわけですから、すべての生活基盤は東京。いきなり地方に転居し、ビジネスを立ち上げるというのは大変厳しい選択だと正直思いました。僕の場合も東京での楽しい刺激が激減し、かなり寂しい思いをしましたしね(笑)。Uターンしたてのタイミングでは、地域のきずなの強さにしり込みしてしまうこともあるでしょう。でも、やはり同級生のネットワーク、さまざまな人たちとの縁はしっかり残っているもの。これは結果論ですが、起業する時はすべてが初めての経験ですから、地縁に根づいたしっかりした人間関係があるのは有利だと思います。司法書士、税理士をどなたにするか、事務所をどこに置くか、信頼できる顧客基盤をどうつくるか、机・椅子・車の手配、果ては事務所のコーヒーメーカーまで、経営者が決める訳ですから。自分が立ち上げたいビジネスがあれば、故郷で起業するのは、ひとつの考えだと思います。

 正直、僕もまだまだ駆け出しの起業家ですから、アドバイスできるようなことなどないんです。ただ僕と同じような立場で起業を目指す方々にお伝えしておくなら、やはり、これまでの友人たちや仕事仲間との関係を絶やさないことは大事だと思います。そして自分も彼ら彼女らのために何かできることをする。Uターンしビジネス、っていうのは日本であまり聞いたことがないので、志ある人にはぜひチャレンジしていただきたいです。最後に、Uターン起業に限らずどんなスタイルでも、起業に挑戦すると想像以上の苦しさがあなたを待ち受けているはずです。人生一度きり、悔いを残さぬよう、ともに闘っていきましょう! 応援しています。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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