ウルリヒ・ベック「原子力スーパージェット機にお乗りの…」

3.11以降、リスク論で広く知られる社会学者ウルリヒ・ベックやニクラス・ルーマンを引きながら議論している人はあまり多くない……と思っていたのですが、武田徹さん以外にも、ぽつぽつと出てきているようです(たとえば http://bit.ly/gP5RDY )。「安全」について講義したミシェル・フーコーを含め、人文・社会科学の英知が現実に対してどこまで有効か検証する必要あるかもしれない、となんとなく考えていたら、ウルリヒ・ベックが福島原発事故について、『ルモンド』3月25日付に論考「崩壊しかけている進歩と安全の神話」 http://bit.ly/e33LSv を寄稿し、『南ドイツ新聞』のインタビューに答えていることを知りました(3月14日付「"Ein strategisch inszenierter Irrtum" 」http://bit.ly/h1uc7V)。
前者はフランス語、後者はドイツ語なので、読むのに骨が折れそうだな、と思っていたら、前者はある方が訳し、ブログで公開されています http://bit.ly/g79gnl 。僕の語学力では限界があったののでたいへんありがたいです。後者もある方が訳し、某SNS内の日記で公開したのを読むことができました。これもたいへんありがたかったです。
というわけで、僕も何か貢献(?)したいなと思っていたら、ベックがいまから約3年前に、イギリスの新聞『ガーディアン』(2008年7月17日付)に、原子力について論考を寄稿していたのを発見しました。
これは英語で書かれているので、僕も読めます。さっそく訳してみました。そして、ぜひとも原文と照合してください。誤訳などありましたらご指摘くだされば幸いです(というか、率直に言って意味がよくわからず、とりあえず直訳しただけのところもありますので、ぜひともお願いします)。すぐに訂正します。
みなさまのご参考になれば幸いです。なおベック先生もしくは『ガーディアン』紙から削除の要請があれば、すぐに削除いたします(笑)。


原子力スーパージェット機にお乗りのみなさま。滑走路のことはお尋ねにならないてください
All aboard the nuclear power superjet. Just don't ask about the landing strip


気候変動と石油危機は、原子力エネルギーを緑の万能薬として提案するために使われている。しかし実際には、それは無謀なギャンブルである
Climate change and the oil crisis are being used to project atomic energy as a green panacea. In fact it is a reckless gamble


Ulrich Beck
ウルリヒ・ベック
The Guardian, Thursday 17 July 2008
『ガーディアン』2008年7月17日(木)


 皮肉で、かつ面白く、そして恐ろしい実在の風刺激の始まりを私たちは目撃しているのだろうか? そのテーマは、破滅的な気候変動と石油危機による原子力リスクのもみ消しである。先週、北海道で開かれたG8〔主要国首脳会議〕会議のさい、アメリカのジョージ・ブッシュ大統領は、新しい原子力発電所を建設するという自分の主張を繰り返した。今週初めには、〔イギリスの〕ゴードン・ブラウン〔首相〕が、新たな8基の原子炉を急いでつくることを公言し、「ポスト石油経済」における「原子力ルネッサンス」を主張した。それはまるで、気候を救おうと望む世界が、原子力エネルギーの美しさを正しく認識することを学ばなければならないかのようである。“グリーン・エネルギー”――ドイツのキリスト教民主同盟の書記長ロナルド・ポファラは原子力をそう命名し直したのだ。こうした言語の政治の新しい転換を見ると、私たちは次に来るものを思い出す必要がある。
 2年前、アメリカ議会は、アメリカにおける核廃棄物投棄によって引き起こされる脅威について、今後1万年間にわたる警告を可能にする言語やシンボルを開発するための専門家委員会を設立した。解決されるべき課題は次のようなものであった。いまから何千年か後、未来の世代にメッセージを送るためにコンセプトやシンボルをいかにデザインするべきか? その委員会には物理学者、人類学者、言語学者、脳神経科学者、心理学者、分子生物学者、古典学者、芸術家などが加わっていた。
 専門家たちは、人類の最も古いシンボルのなかにモデルを探した。彼らはストーンヘンジやピラミッドの構造を研究し、ホメロスや聖書の歴史的受容について調べた。しかしそれらは最大限でも2000年であり、1万年には届かなかった。人類学者たちは頭蓋骨と交差した骨というシンボルを提案した。しかしながら、ある歴史家は、頭蓋骨と交差した骨は、錬金術師たちにとってはよみがえりを象徴するということを、委員会に思い出させた。ある心理学者は、3歳の子どもにある実験を行なった。もしそのシンボルが瓶に貼られていたら、子どもたちは「毒だ!」と叫んだ。しかしそれが壁に貼られていたら、子どもたちは熱心に「海賊だ!」と叫ぶのだった。
 われわれが原子力利用を通じて世界に導入してきた危険について、未来の世代に警告するという課題に直面したときには、われわれの言語でさえ失敗する。この意味では、安全保障と合理性の保証人であると考えられているアクターたち――国家や科学、産業――は、きわめてアンビバレントなゲームに巻き込まれている。彼らはもはや管財人ではなく容疑者であり、リスクの管理人ではなくリスクの源である。というのは、彼らは人々に飛行機に乗り込むよう急かしているのだが、滑走路がまだつくられていないのだ。
 グローバルなリスクによって地球中に引き起こされた“実存的懸念 existential concern”は、政治的議論において大規模リスクを抑え込む競争を導いた。気候変動を引き起こす計算不可能な危険は、原子力発電所にかかわる計算不可能な危険と“争う”と考えられている。大規模なリスクをめぐる多くの決定は、安全な代替案かリスクのある代替案かを選ぶ問題ではなく、異なるリスクのある代替案のなかから選ぶことであり、しばしば、そのリスクが安易に比較するには質的にあまりに異なる 代替案のなかから選ぶことである。科学的・一般的言説の既存の形態は、そのような検討にマッチしない。そうなると、政府は、手の込んだ単純化という戦略を採用する。彼らはそれぞれに特有の決定を、安全な代替案とリスクのある代替案との間のものとして示す。その一方で、原子力エネルギーの不確実性を軽視し、石油危機と気候変動に注意を向ける。
 衝撃的な事実は、世界リスク社会の内部における衝突の状態が文化的なものである、ということである。グローバルなリスクが、通常の科学的計算を逃れ、相対的な非-知識(relative non-knowledge)の領域にあることが、よりいっそうわかるにつれて、特定のグローバル・リスクに関する文化的な認知、つまりそれらの実在や非実在についての信念がより重要なものになる。原子力についていえば、私たちはリスク文化の衝突を目撃している。それゆえチェルノブイリの経験は、ドイツとフランス、イギリス、スペインと、ウクライナやロシアとでは、異なって受け止められた。多くのヨーロッパ人にとっては、気候変動によってもたらされる脅威のほうが原子力テロリズムよりもずっと大きくそびえ立っている。
 いまや気候変動は人為的なものとみなされ、その破滅的なインパクトは不可避なものとみなされており、そのカードは社会と政治のなかでシャッフルされ直されている。しかし、気候変動を人間の破滅への不可避な道とみなすことは、完全に誤りである。というのは、気候変動は、 政治における優先順位やルールを書き直すための、予期せぬ機会に開かれているからだ。石油価格の高騰は気候に便益をもたらすにもかかわらず、全体的な停滞という脅威がついてくる。エネルギー・コストの激増は、生活水準を落としており、社会の中核における貧困というリスクを生じさせる。結果として、チェルノブイリ後20年のエネルギー安全保障にいまなお認められている優先順位は、どれだけ長い間、消費者がエネルギー価格の持続的な上昇に直面して生活水準を維持できるか、という疑問によって掘り崩されている。
 しかし、原子力エネルギーの“退化したリスク vestigial risk”を無視することは、“残余的リスク社会residual-risk-society”の文化的かつ政治的ダイナミクスを誤解することである。最も粘り強く、最も説得力があり、最も効果がある原子力批判者は、環境保護派ではない。原子力産業の最も影響力ある敵は、原子力産業それ自体である。
 たとえもし政治家たちが、グリーンな電気として、原子力を意味論的に改革することに成功しても、また、たとえもし対立する社会運動がそのエネルギーを分裂を通じて消散させるとしても、それはすべて、その脅威のリアルな対立勢力によって力を殺がれる。それは不変であり、永続的であり、そして疲れ果てたデモ参加者たちがあきらめたときでさえ、依然として存在する。ありえない事故が起きる確率は、“グリーンな”原子力発電所の数に応じて高まる。すなわち、それぞれの事故の“発生”は、世界中で、他のすべての事故の記憶を呼び覚ます。
 というのは、リスクは大災害(カタストロフィ)の同義語ではないからだ。 リスクは大災害の予期であり、特定の場所ではなく、どこにでもあるものである。リスクはヨーロッパにミニ・チェルノブイリをもたらすわけではない。世界の人々は、世界のどこかで不注意や“人為的エラー”が生じる気配に勘づきさえすればよく、“グリーンな”原子力エネルギーを擁護する政府は、無謀かつ心ならずも、人々の安全保障上の利益を賭したギャンブルをしていると、自らが非難されていることに突如として気づくだろう。
 文明化によってつくり出されたこうした脅威を感じ取ることができず、それゆえその主権的判断力を奪い取られた“責任ある市民”はどうなるのか? 以下のような思考実験を考えてみよう。もし放射能が痒みを生じさせるとしたらどういう結果になるか? 皮肉屋としても知られる現実主義者はこう答えるだろう。人々は何か、たとえば痒みを“抑制する”軟膏を発明するだろう、と。未来の儲かる商売である。もちろん、説得力のある説明が即座に提供されるだろう。痒みは重要ではなない、ほかの要因に遡りうるものだ、と。おそらく、そのように物事を徹底的に説明しようとする試みは、もしみんなが、皮膚炎になっても自身をかきむしることでやりすごしたり、ファッションショーや商談でひっきりなしにかきむしり続けるようになったならば、生き残る可能性は低い。そして近代的巨大災害を取り扱う社会的、政治的方法は、まったく異なる状況に直面することになるだろう。というのは、論争と交渉の的となっているこの問題が、文化的に可視的になるからである。


ウルリヒ・ベックは『世界リスク社会』の著者で、ミュンヘンのルートヴィヒ・マクシミリアン大学とロンドン・スクール・オブ・エコノミクス社会学教授である。(粥川準二仮訳)

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/jul/17/nuclearpower.climatechange


追記:
 Hさんのご助言で、少し手を入れました。Hさんに感謝いたします(5月1日)。

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)