2011.10.09

〝野田流〟現実路線
「自民党型」政策決定システムに回帰
政官共存、政調の事前審査
党税調の復活

政府税制調査会であいさつする野田佳彦首相(中央)と会長の安住淳財務相(左から2人目)=首相官邸で9月7日

 政権交代から2年。迷走の末、野田佳彦首相は、政策決定システムを「自民党型」に回帰させた。09年衆院選マニフェストに掲げた「脱官僚依存」や「政治主導」の理念先行型の政権運営は実を結ばず、国政は大混乱した。そこで自民党政権が築いてきた「政官共存」の伝統的な日本型システムに当面は寄りかかり政権の立て直しを図ることになったのだ。

 さらに党政策調査会による政策・法案の事前審査制を導入し「政策決定の政府一元化」を撤回。党税調も復活させ、政策面でも党内の士気を高めようとしている。〝野田流〟現実路線の政権運営が本格化した。

「政府の意思決定をする際に政調会長の了承を原則とする」

 野田首相は当時は財務相として臨んだ民主党代表選で勝利した翌日の8月30日、輿石東幹事長、前原誠司政調会長ら主要な党役員の人事を決めたうえで「政策決定の政府一元化」撤回を表明した。

 政府一元化は民主党マニフェストに明記されていた看板公約だ。民主党は野党時代、自民党政務調査会(政調)が政府の政策・法案を事前承認するシステムを「族議員を生む政官業癒着の温床」と徹底的に批判してきた。そのため、政権交代と同時に民主党の政策調査会(政調)を廃止し、政策決定の権限は内閣に一元化したのだ。

 その撤回に至った最大の原因は、鳩山由紀夫元首相、菅直人前首相の歴代2内閣が官僚組織を使いこなせなかったことだ。

 子ども手当や高速道路無料化などマニフェストの目玉政策に必要な財源は捻出できず、外交政策では沖縄県の米軍普天間飛行場の移設問題で鳩山政権が迷走し自滅。菅政権は東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の対応に手間取り、09年衆院選で多くの有権者が民主党に託した期待は失望へと変わった。

 民主党にとって野田政権はまさに背水の陣だ。大震災・原発事故に世界的な経済危機が重なった緊急事態に対応するには、実績のある自民党型システムに回帰せざるを得なかったとも言える。しかし、それだけではない。政府一元化の試行錯誤で得た政権運営の手痛い教訓も「自民党化」の選択につながった。

 鳩山政権当時、政府は鳩山首相、党は小沢一郎幹事長が管轄する「二重権力」の形になり、小沢幹事長は党の「人事とカネ」を握って「小沢支配」を強化した。政府に入れる国会議員は政務三役に官房副長官、首相補佐官を加えて最大74人。民主党議員300人以上が党に残り、政府に対する不満分子が増殖する弊害が顕在化した。

 10年6月、鳩山氏の後を継いだ菅氏は民主党政調を復活させ、所属議員の多くが政策立案に関与できる態勢を目指した。玄葉光一郎政調会長(当時)に国家戦略担当相を兼務させることで「政府・与党の政策一元化」にもこだわったが、党政調は事前承認の権限を持たず、政府に対する「提言組織」と位置づけられた。

 小沢グループを中心とする非主流派が政調の会合に集結して菅政権批判を繰り広げ、政府側はその一部を取り入れてお茶を濁すケースが続出した。建設的な政策論議がないまま、政調は不満分子の「ガス抜き」の場と化してしまった。

 そんないびつな政府・与党関係が11年6月の内閣不信任決議案採決をめぐる造反騒動につながる。小沢グループなど非主流派の一部が不信任案に賛成する構えを見せ、菅氏は退陣表明に追い込まれた。大震災・原発事故に結束して当たるべき時に内紛で政権崩壊に至った教訓から、玄葉氏が政調会長を退任するに当たって野田首相に提言したのが事前承認制の採用だった。

 ただ、玄葉氏は「自民党の場合は3重になっているが、もう少し簡易な手続きで事前承認制にするのも一つの方法だ」とも提起していた。自民党の事前承認制は「府省単位を基本とする部会」→「政調」→「ベテラン議員を中心とする総務会」の3段階の承認を得る必要がある。政府側(各府省)は政策や法案を通したい時、各段階で族議員や重鎮議員と調整しなければならず、野党時代の民主党はこれを「癒着」と批判してきた。

 党内に事前承認の権限を持つ部署や役職が増えるほど、癒着や利権を生む温床となる。玄葉氏は「簡易にすることで、自民党時代のスピーディーな意思決定がなかった反省を踏まえることが可能になる」と主張。民主党政調には自民党の部会に当たる「部門会議」があるが、前原氏は政調会長に就任した当初、「事前承認の権限を持つのは政調会長。部門会議に決定権があったら自民党の族議員と同じになる」と事前承認権を政調会長に集約する「簡易なシステム」を想定していた。

政策の最終承認機関「政府・民主三役会議」

 しかし、これには輿石氏や樽床伸二幹事長代行らが異を唱えた。政策決定に対する前原氏の影響力が突出するのを嫌ったためで、政調会長代行に「反小沢」の急先鋒、仙谷由人元官房長官が起用されたことも党内の警戒感に拍車をかけた。結局、政府側から首相と藤村修官房長官、党側から輿石、前原、樽床の3氏と平野博文国対委員長が出席する「政府・民主三役会議」を政策決定の最終承認機関として設置。政府側との合議の形にして「政策一元化」を標榜するが、自民党の総務会に酷似しており、政策決定システムはますます自民党に近づいた。

 それでも、政策決定に関与する議員が格段に増えた効果は表れている。野田首相が菅政権から引き継いだ「復興増税」には反発も根強いが、首相は政権交代時に政調とともに廃止された党税制調査会(税調)も復活させた。自民党政権時代、自民党税調は財務省と各府省をつなぐ専門議員(インナー)が決定権を握り、族議員の牙城として権勢をふるった存在。野田政権では政調、税調などの各所に非主流派の小沢グループも配置され、復興増税も含め政権運営に責任を持つ機運が広がっている。

 自民党型システムを採用することによって、菅政権の残した教訓「党内融和」は実現されつつある。官僚組織との関係はどうか。

 民主党がもう一つ、政権交代時に廃止したのが政府の事務次官会議だ。自民党政権時代、すべての閣議案件を事前の府省間調整で決めていた事務次官会議は、民主党にとっては「官僚主導の象徴」だ。一時は仙谷氏が事務次官ポストの廃止にまで言及したが、大震災後は被災者支援の調整機関として全事務次官を集めた「各府省連絡会議」を設置。野田首相はこれを週1回定例開催することとした。閣議案件を事前に決めるわけではないが、震災対応以外についても府省間で調整する機関に位置づけられ、事実上の事務次官会議復活と言われている。

 さらに首相は産官学の英知を集めた「国家戦略会議」(仮称)を設置する方針。これは民主党が批判してきた「小泉改革」の司令塔「経済財政諮問会議」を想起させる。

 すべては民主党政権立て直しのため。しかし、ただでさえ「財務省のいいなり」と揶揄される野田首相だ。自民党のシステムをまねることで政権運営の安定に成功しても、それだけでは国民の失望感は解消できない。何のための政権交代だったのか。その答えはまだ示されていない。

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