法 話

人生の機微
書き下ろし

福岡県 ・通玄寺住職  伊藤文教

 丸裸で生まれた私たちがいつの日かこの世を去る時、誰ひとりとして同じ人生を送り、同様の結果を残した人はいない。それはもちろんお互いの天分(てんぶん)、縁、気力、体力そしておかれた家庭、社会、環境が異なったためであり、限りある寿命の中で、もてる知識、知恵と力をもっていかに精進努力したかの結果であろう。

 「禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし」と古語に言うとおり、災いと幸せは相表裏し変転するのであり諸行無常(しょぎょうむじょう)である。四苦八苦しながら災いを克服し、名実ともに成仏し、人徳のある人として惜しまれながら一生を閉じる人こそ最高最善の人生を送った人であろう。
 時には過ぎし日の我が身を振り返り、己の心の中の少しでも善なるものを見つけ出す心がけも大切である。一方、世の中の(すべ)ての事象(じしょう)をありのままに正確に見聞し、真の姿を感じとる能力をもって対応し、本来的に己のこころの中に内蔵している仏心を少しでも呼び戻したいものである。


布施(ふせ)持戒(じかい)を保ちつつ
忍辱(にんにく)精進怠らず
禅定を修し智恵みがき
日々の行いふりかえり
自利利他(じりりた)ともに(まど)かなる
生き甲斐のある一生を
おくるぞ人の道とこそ
悟るぞ涅槃(ねはん)(おし)えなり



と、「発菩提(ほつぼだい)涅槃章(ねはんしょう)」に訓えてあるとおり、反省の上にたって自分を生き、他人をもたて、ともに円かな人生を目指して努力し続けたいものである。
 義理人情が薄れ、科学万能、お金万能の昨今、社会の指導的地位にある人が違法な行為をしたり、凶悪犯罪や、犯罪の若年化が報ぜられるたびに、耳目をおおいたくなるのは私ひとりではなかろう。仏教国である日本人が仏教を遠ざけ、宗教教育、修身教育の軽視の結果でなければよいがとさえ思う。
 仏前に端座(たんざ)して般若心経を拝読するとき、わずか二百七十数文字の経文(きょうもん)に秘められた人生の啓示は、わが心の地獄にカンフル注射の思いがする。その他総てのお経は私たちが他界してからのことは何も示していない。この世における人間生活の基本理念を教えている道徳修身の教科書であると言っても過言ではない。
 人生は「何が何でも」の心意気もよいが、「ボツボツ七十点くらい」のほうが余裕があり息も長い、一生くじけることなくやり遂げる人生を送る秘訣であろう。
 両親から授かった体と心を大切にして、仏の教えを心のよりどころとして、笑顔と感謝、合掌とお陰様の姿勢態度、精進努力を惜しむことなく、人生有終の美を飾りたいものである。
 黄檗宗の教義(仏教上の教え)にも示してあるとおり、「唯心浄土 己身の弥陀(阿弥陀様)」であることを、読経、勉学、作業、坐禅等を通じて体得し、煩悩を軽減し、無我の境地、三昧の心境を追求し、日常生活の中で人間としての正しいあり方、真にい生きがい甲斐のある人生をうな
ずきとる一助が黄檗宗の教理(宗教上の理論)である。