vol.6 被抑圧者演劇へと繋がったパウロ・フレイレの「被抑圧者の教育学」

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被抑圧者の演劇へと繋がったパウロ・フレイレの被抑圧者の教育学

歴史的な名著、パウロ・フレイレの「被抑圧者の教育学」が50周年記念版として新しく出版されました。この「被抑圧者の教育学」のなかには、教育に携わるものや社会課題に挑戦しているものにとって、重要な示唆がたくさんあると思います。パウロ・フレイレのこの考えは、アウグスト・ボアールの「被抑圧者の演劇(Theatre of the Oppressed)」にも受け継がれており、演劇教育家としても無視できません。

パウロ・フレイレ(Paulo Freire,1921-1997)は、ブラジルの教育実践家であり、被抑圧者の教育学では、格差社会において無知が故に自由を奪われて不利益を被ってしまっている農民や労働者らを啓発しました。

 

抑圧するものと抑圧されるものの対立関係

人々がみな自由に人生を謳歌する上で障害となるものはたくさんあります。世界の仕組みを作っているのは豊かな国の豊かな人たちであり、彼らにとって都合の良い世界が広がっています。貧しい暮らしをして、夢や労働や満ち足りた生活の機会を奪われたりしている人たちは、無力感と無知でただ虐げられるばかりです。そこで、力を合わせて無知を克服し、問題解決を彼ら自身で図る必要がありますし、豊かな人たちと理解の溝を埋め、協力し合って世界を変えていく必要があります。

パウロ・フレイレ今なお、格差社会は広がっていますし、異常気象や天災だって、人間が引き起こしているものです。50年という歳月が流れていても、全世界的にこの本は問題提起し続けています。

確かに、寄付や支援などたくさん存在しますが、フレイレが指摘するのは施しではなく相互理解です。豪華なホテルに泊まり、時計もパソコンもブランドの服も持っている人が貧しい地域をちらっと視察したところで、いったいなにが理解できるのでしょう? 同等の立場で、話し合いをすることが必要ですし、教育を受けた豊かなものも、相手は無知でなにもしらない連中だと決めつけて、偏った視点の一方的な支援策を押しつけるのも問題です。

また、「自由への恐怖」というものもあり、抑圧者は支配する自由を失う恐れ、被抑圧者は覚悟を持って生活を変える恐れがあり、こうしたものも障害になります。自由を目指す教育のためには、抑圧されていると距離を置くことはできず、かわいそうだという人道的な支援対象にしてはいけません。抑圧する側のエゴは偽りの寛容さを見せ、結局抑圧を持続させることになってしまうとフレイレはいいます。

 

銀行型教育と問題解決型教育

フレイレが痛烈に批判しているのが教育です。彼は「銀行型教育」と呼びました。それは、脳の口座に知識を貯め込んでいくだけの詰め込み型教育です。銀行型教育では、現実をありのままに見て、解釈することが出来ません。そこには、既にレッテルが貼られているのです。

パウロ・フレイレ銀行型教育は増え続ける人口と、効率よく民衆をコントロールする上で広く普及されています。日本の教育はまさに銀行型であり、自分でものを考えられない応用のきかない人材を多数輩出しています。

人間をモノとして捉えるという過った価値観ではなく、生きた人間として愛を持って接しなければならないのです。現代は、AIが進化し、命を持たないモノとして労働に参加するようになりましたが、人間がこのモノの状態ではいけません。抑圧された状態ではモノ同然なのです。

フレイレは銀行型教育ではなく問題解決型教育を推奨しています。銀行型教育は持続に重点を置いていますが、問題解決型教育は変化に重点を置き、革命的です。

 

対話性について

問題解決のための教育のためには、対話が重要になります。対話のないところにコミュニケーションはなく、コミュニケーションが成立しないところに本来の教育はないと彼はいいます。抑圧されるものは沈黙を余儀なくされているケースが多く、昨今日本でもパワハラ問題がクローズアップされていますが、ようやく声を上げるという事例が出てきています。しかし、両者に対話がなく対立している様がただただワイドショーで取り上げられ、コメンテーターや世論は批判ばかりしているという構図も人間的な本質からは外れています。

わたしたちは世界の中で生きていると、必ずなにか解決すべき限界的な状況に数多くぶち当たるものです。こうした課題をフレイレは「生成テーマ」と呼びましたが、このテーマに対して調査探索し、理解し、建設的に対話を通して解決させていくことが、現代においても大切なのです。

 

被抑圧者の演劇とフォーラムシアター

ここまで、パウロ・フレイレの被抑圧者の教育学の概要を紹介してきました。フレイレは平等な立場で対話を通して問題解決を図るツールが必要だと感じていました。その上で、アウグスト・ボアール(1931-2009)の被抑圧者の演劇、フォーラムシアターという手法こそがまさにそのツールとしてブラジルを中心に普及したのです。

アウグスト・ボアールフォーラムシアターでは、抑圧されている状況・人を想定し、演劇的な寸劇を通して、観客たちに解決策を考えてもらいます。対話を演劇的対話にしたことで、より問題をリアルに受け取ることが出来、場合によっては感情を揺さぶられ、無知を越えて行動化していくエネルギーすら得ることが出来ます。

フォーラムシアターではこども向けに実施することもありますが、大人が答えを提示・誘導しないようにします。まさにフレイレの教育論が反映されています。

抑圧者と被抑圧者の構図は、政治家と民衆のようなわかりやすいものもあれば、先生と生徒、親と子のような関係性のなかにも見られるだけに、まずは状況を偏りなく理解し、一方が教えて一方が学ぶという関係性ではなく、誰もが対話に参加出来る場が教育として大切なのです。

 

思うこと(まとめ)

「被抑圧者の教育学」で指摘されていることは、多くの教育者や社会起業家に気づいてほしいことです。銀行型教育のように、わたしたちが常日頃から思っているような教育の悪しき習慣についてはすぐに同意できるでしょう。批判的精神はとても大切なのですが、誰かを善にして誰かを悪にしたり、いたずらに対決姿勢を高めて革命を成し遂げようというのではなく、いかに双方の立場・視点を理解し、双方にとって益になる人間的な愛に基づく革命を成し遂げていくかが大切ではないでしょうか。

フレイレとボアールのコンビネーションのように、問題解決型教育と演劇がドッキングされた形が成果を出しているだけに、GLODEAとしてはフォーラムシアターの普及に向けて尽力したいところです。ぼくは「スーパー学級会」という名で、学校現場のなかで普及していきたいとこれまで考えてきました。詰め込み型ではない問題解決型教育ツールを日本中の子どもたちが慣れ親しんでほしいものです。「被抑圧者の教育学」は現代においても尚重要です。ぼくたちは、演劇という効果的なツールを応用しながら、より理想的な教育に寄与していきたいと思います。