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<22年間の激走を語る>福士加代子「マラソンのラスボス、倒せたかな」

posted2022/02/25 11:01

 
<22年間の激走を語る>福士加代子「マラソンのラスボス、倒せたかな」<Number Web> photograph by Atsushi Kondo

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近藤篤

近藤篤Atsushi Kondo

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Atsushi Kondo

長きにわたり、日本の陸上長距離界を牽引してきた笑顔の女王が、成功あり失敗もありの賑やかなアスリート人生を終えた。走り続けた脚をとめ、その苦楽に満ちたキャリアを振り返る。

 昨年の12月22日、ワコール女子陸上競技部スパークエンジェルスのHPに「福士加代子からの大切なお知らせ」というタイトルの記事がアップされた。

“来たる2022年1月30日(日)大阪ハーフマラソンを最後に第一線を退くことをここに報告いたします。”

 その発表からおよそ1カ月半、2月上旬の火曜日、僕は京都市左京区、平安神宮からほど近いカフェの2階で福士加代子が到着するのを待っていた。

 窓の外には2月にしては暖かすぎるくらいの日の光が降り注いでいる。ちょうど9年前、大阪国際女子マラソンの2日後、2位でレースを走り終えた彼女にインタビューした時もこんな素敵な天気だった。

 ほんと練習嫌いなんです……、でも一等賞獲るまでやめられないし、マラソンのことなんかまだ全然わかんないけど……、こんな自分でもちょっとはマラソンに向いているのかなって今は思えるんです……。

 3000mと5000m、ハーフマラソンの日本記録を持っていたランナーは、アーモンドのような形をした大きな瞳をキラキラと輝かせ、5年前に始めたばかりのマラソンについて朗らかに語ってくれた。

 彼女はこれまでの長距離ランナーのイメージと全てにおいて異なっていた。サービス精神に溢れ、陽気で、よく笑い、(いい意味で)何か特別なものを背負っている気配がなかった。

 前回のインタビューの数カ月後、彼女はモスクワ世界陸上のマラソンで3位に入り、3年後の'16年、大阪国際女子マラソンでは初めての一等賞を手に入れた('13年の大阪国際も、その後1位の選手がドーピングで失格となり福士の優勝と記録されたが、トップでテープを切ったのは'16年が初めて)。

 しかし、彼女はマラソンをやめず、そこからさらに6年ほど走り続けた。

――おつかれさまでした! でいいんですかね? 何かの記事で読みましたが、あえて引退という言葉をつかわず第一線を退くという表現にしたのは、走ることをやめるわけではないから、と。

「いえ、もう引退でいいんです。あの時はそう思ったけど、今は自分から引退、引退って、引退を乱用してますから。やっぱこれは引退だわって」

――五所川原工業高校に大好きだったソフトボールを続ける場がなかった、それが22年間走り続けるきっかけになりましたね。

「そうなります。特に深い考えもなく入った陸上部の仲間と一緒にいるのが楽しくて、あの頃は走るっていうより遊んでいる感覚でした。青森県で一番にもなりましたけど、速くなることは私にとってそれほど大事な目標じゃなかった。大会に行くときも、みんなでワゴンバスに乗り込んで遠足気分。前日は500円でお菓子を買いに行って、競技場に着いたらテントを立てるのは男の子、うちら女の子はお菓子を広げて、今日はなに? みたいな(笑)」

【次ページ】 「『実業団』って意味もわからなかった」

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