前回までのあらすじ:
米政府がUFOに関連する調査を長年続けてきたことは公然のタブーとなっていたが、ついに2021年にはその調査報告が公表されるに至った。長年にわたるUFO研究家たちの願いが叶った形だが、そのなかには調査研究ジャーナリストのレスリー・キーンもいた。彼女はUFOに関するベストセラー書籍やニューヨーク・タイムズでの調査報道を手掛け、UFOの科学的解明を目指していたのだ。前回の記事はこちら

マニアのなかには、UFOはすでに聖書の時代に記録されていたと考える人もいる。1974年に出版された『The Spaceships of Ezekiel(エゼキエルの宇宙船)』[未邦訳]のなかで、NASAのエンジニアであるヨーゼフ・F・ブルームリヒは、預言者が見た〝車輪の中の車輪〟という天上のヴィジョンは、神ではなくエイリアン宇宙船との遭遇であると述べている。

デイヴィッド・マイケル・ジェイコブスは74年刊行の『全米UFO論争史─大衆、UFO団体、メディア、科学者、軍人,政治家を巻き込んだ論争の軌跡』の中で、1896年から翌年にかけて全米で「空飛ぶ船」の目撃が相次いだと書いている。このように記録に残された宇宙船は、常に人類のテクノロジー水準を上回る能力を見せつけてきたが、戦時中のわたしたち自身が進歩したことで、その能力はさらに驚異的なものになった。

一般にUFOにおける「現代」とは、1947年6月24日に始まったとされている。この日コールエアA-2を操縦していたケネス・アーノルドという民間飛行士が、レーニア山の近くで9つの揺れる物体がゆるやかに編隊を組んで飛んでいるのを目撃した。その物体はブーメランか尾のないマンタのような形をしており、アーノルドの見るところでは音速の2〜3倍のスピードで移動していた。彼はその動きを「水面を跳ねながら飛んで行くソーサー(受け皿)」のようであったと表現した。

これを伝えた新聞が「フライングソーサー(空飛ぶ円盤)」と見出しに書いた。ある個人UFO研究家によると、その年の終わりまでに国内で少なくとも850件の似たような目撃情報が報告されたという。一方、科学者たちは、空飛ぶ円盤は存在しない、なぜなら存在することが不可能だからだと主張した。ニューヨーク・タイムズは、ヘイデン・プラネタリウムの天文学者ゴードン・アトウォーターの言葉を引用して、目撃情報が相次いだのは「軽い気象の乱れ」と「集団催眠」が合わさった結果だとした。

「プロジェクト・サイン」

米政府内では、関係者らが改めて名付けた「未確認飛行物体(UFO)」をどの程度まで真剣に受け止めるかという問題について激しい論争が巻き起こった。47年9月には、寄せられた目撃情報の数は、空軍が無視できないほどおびただしいものになっていた。その月、ネイサン・F・トワイニング中将は、機密扱いの公式文書のなかで全軍の指揮官に対して、「謎の物体に関する報告は現実のもので、幻想やつくり話ではない」と通知している。

「トワイニング・メモ」は、以後UFO研究者の間で神聖視されることになる文書だが、このなかには、ライヴァル国──たとえばソ連──が想像を絶するような技術的進歩を遂げたのではないかという懸念がはっきりと述べられており、これがきっかけとなって調査のための機密研究「プロジェクト・サイン」が始まった。

政府高官たちは、「空飛ぶ円盤」は「惑星間」にその起源があると考えるのが妥当だとする者と、「空飛ぶ円盤」の目撃情報は誤認だらけだとする者に完全に二分されていた。あるメモによると、UFOに関する報告のうち20%は説明のつかないものだったが、その一方で、決定的な証拠──おそらくは墜落した円盤の残骸のようなもの──は存在せず、また軍のシンクタンクであるランド研究所の科学者が考えていたように、単純に星間飛行は不可能だと考えられてもいた。

だが、不可解なことはその後も続いた。48年、アーノルドの目撃談から約1年後、イースタン航空DC-3のパイロットふたりが、巨大な葉巻型の光がものすごいスピードで突進しきた後、ありえないほど急激な方向転換をして、晴れわたった空に消えていくのを目撃した。別の航空機のパイロットひとりと地上の数人もこれを裏付ける証言をした。

これはUFOが至近距離で目撃された初めての事例だった。ふたろのパイロットは、UFOが高速で通り過ぎたときに窓が並んでいるのが見えたとも話した。プロジェクト・サインの調査員は、「状況の評価」と題した地球外生命体(ET)説を支持するメモを最高機密として提出した。しかし、反対派は、もしETが来ているのであれば、われわれにそれを知らせるのではないかと反論した。

多すぎる目撃情報

52年7月、UFOの艦隊がホワイトハウス上空の制限空域を侵犯したと報じられたときには、いよいよ正式通知が送られて来たかに思われた。フィリップ・K・ディックの小説に出てくるような言葉がニューヨーク・タイムズ紙の見出しを飾った。「ワシントン近辺で複数の飛行物体がパイロットとレーダーの両方によって発見された──空軍は、何か、おそらく”円盤”がゆっくりとしかし激しく上下動しながら飛行したとの報告を明らかにした」

この事件を大ごとにしたくなかった空軍は、防衛措置はとらなかったと新聞に発表したが、その後、侵入者を迎撃するために軍用機を緊急発進させていたことが明らかになった。このとき空軍情報部長のジョン・サムフォード少将が、第二次世界大戦後では最大規模となる記者会見を開いた。ジョン・フォードの映画に出てくる法律家のような重々しい態度のサムフォードは、横目で睨みを効かせながら「大量の報告書のなかに何パーセントか含まれている、信頼できる目撃者による比較的信じ難い現象」ついて言及した。

翌年1月、CIAは密かにカリフォルニア工科大学の数理物理学者ハワード・P・ロバートソンを座長とする専門家会議を招集した。この「ロバートソン委員会」が出した結論は、われわれがUFOの訪問を受けているということではなく、UFOの目撃情報が多すぎるということだった。これは現実的な問題だった。もし、米国領土への本物の侵入情報が奇妙な幻影の大渦に飲み込まれてしまったら、国防に深刻な影響を及ぼす可能性があったからだ。冷戦下においては、米政府が自国の空域を完全に制御していると思われることが極めて重要だった。

洪水のように押し寄せる報告書を食い止めるために、委員会は「国家安全保障局(NSA)は、未確認飛行物体が得てきた特別な地位と、残念ながら身にまとってしまった謎のオーラを剥ぎ取るために、直ちに措置を講じるべきである」と提言した。また、民間のUFOグループに潜入して監視することや、誤情報を暴く努力の一環としてメディアに協力を求めることも提案した。

このキャンペーンは、1966年に放映されたテレビ特番「UFO:友か、敵か、幻か」でその頂点に達した。この番組でCBSのアンカーマン、ウォルター・クロンカイトは、UFOを第3のカテゴリー「幻」の忘却の彼方へと粘り強く追いやったのだ。

軍の全員がこの姿勢に満足していたわけではない。CIAの初代長官であるロスコー・ヒレンケッター海軍中将はニューヨーク・タイムズの記者にこう話した。「空軍将校たちは真面目にUFOについて憂慮しています。しかし政府の秘密厳守と嘲笑によって、多くの市民が未知の飛行物体がナンセンスであると信じ込まされています」

「プロジェクト・ブルーブック」

政府はUFOの報告を収集する部署を設けていた。オハイオ州デイトン近郊にあるライト・パターソン空軍基地で行なわれていた、「プロジェクト・サイン」の延長線上にある「プロジェクト・ブルーブック」である。

ブルーブックは、貧弱な予算で運営されている部署で、できれば他の部署で働きたいと思っていた下級将校たちによって運営されていた。唯一継続的に参加したメンバーで科学者でもあったのがオハイオ州の天文学者J・アレン・ハイネックで、彼はUFOに懐疑的な、ロバートソン委員会の元メンバーだった。初めのうちハイネックは「常識的」なアプローチをとっていた。「確たる証拠がないのであれば、現実的に『ありえない』と考えるのが正当な態度だと思っていた」と後に彼は記している。

UFOと思われているものの95%は、珍しい雲や気象観測用の気球、大気中の気温逆転層など、ありふれた理由によるものだった。光る球体は金星が原因と考えられるし、静かな三角形は機密扱いの軍事技術に関係するものと思われた(U-2やSR-71ブラックバードはUFOと報道されることが多く、これらのプロジェクトを秘密にしておきたい防諜団体が混乱させていたのだ)。

だが残りの5%は、政府の懸命の努力にもかかわらず、きちんと説明することができなかった。ハイネックは自分でも驚いたことに、UFOを目撃した人々に共感を覚え始めた。そうした人たちは、変人やいたずら好きやUFOマニアというより、当惑しているだけの真面目な市民である可能性が高かったからだ。

それでも、ハイネックは彼の仕事を続けることを期待されていた。66年3月14日以降、ミシガン州デクスター周辺で、100人以上の目撃者から、低空にまばゆい光や大きなフットボール型の物体を見たという情報が寄せられた。ハイネックが駆けつけたとき、地域の住民は「ヒステリーに近い」状態に陥っていた。3月25日の記者会見で、ハイネックは何とかパニックを回避しようとして、目撃された現象を月や星のせいにしたり、腐った植物の自然発火、つまり「沼気」のせいにしたりした。

ミシガンの人々はこれを侮辱ととらえた(「沼気ガス」は、政府の恩着せがましい難解さを表すUFO研究家たちの一般的な隠語となった)。同州のグランドラピッズ出身で、当時下院少数党である共和党の党首だったジェラルド・フォードは、「米国民は空軍がこれまで長らく行なってきた以上の説明を受けるべきだ」と述べて、議会で公聴会を開くよう求めた。ハイネックは下院軍事委員会での証言で、プロジェクト・ブルーブックの業績を評価し、UFOの正当性の問題に決着をつけるための独立機関を設立することを提言した。ブルーブックは、17年間で約1万2,000件の情報を調査し、そのうち701件は原因不明のままであった。

UFOの”黄金時代 “の終わり

66年末、コロラド大学の物理学者エドワード・U・コンドンに30万ドルの予算が与えられ、ハイネックの提案に沿った研究が開始された。だが、このプロジェクトは──真に客観的なアプローチをすればUFOが存在するかもしれないという事実を認めざるをえないかもしれないというコーディネーターが書いたメモが発見されてからは特に──内輪もめに悩まされた。

ETのふるまいが、われわれが理解している普遍的な法則に沿ったものではないことは明らかだった。このコーディネーターは、UFO信奉者の心理的・社会的状況に主な関心があることを同僚に強調すべきだと協力した科学者に提案していた。つまり、UFOの目撃情報は、冷戦時代のテクノロジーに対する不安やためらいのメタファーとして理解すべきだということだ。

68年の晩秋、1,000ページに及ぶ「未確認飛行物体の科学的研究」、またの名を「コンドン・レポート」が完成した。ブルーブックから調査のために選ばれた91件の事件のうち、30件は公式には解明されないままだった。56年に英国の米空軍基地付近で、超高速の物体がいくつものレーダーに記録さるという「不可解で異常な」出来事があった。これについてコンドンの調査員のひとりは、「UFOの明らかに合理的かつ知的な動きからして、この目撃情報の最も可能性の高い説明として考えられるのは、出所不明の機械装置である」と書いている。

退職した警部補でUFOと国防について書いているティム・マクミランはわたしにこう語っている。「他の700件は必要なかった。こういうケースが1件あれば『どうだ、これについて調査すべきじゃないか』と言うことができたからだ」

報告書の要約と「結論と提言」の章を担当したのはコンドンだった。彼は、調査が完了するはるか前にすでにUFOは全くのでたらめだと公言していて、報告書の残りの900ページにはほとんど目を通していなかったようだ。彼は「入手できる限りの記録を慎重に検討した結果、科学の進歩につながると期待してUFOについてさらに研究を進めることは、おそらく妥当とは言えないであろうという結論に達した」と書いている。コンドンは他にも、UFOに関する活動をしたことで学童を褒めるべきではない、科学者は自分の才能と資金をどこか他の分野に使うべきだ、と忠告していた。プロジェクト・ブルーブックは70年1月に終了した。

72年、ハイネックは『The UFO Experience: A Scientific Enquiry(邦訳『UFOとの遭遇』 大陸書房)』を出版した。これは、ブルーブックとコンドン・レポートの批判的分析であり、体系的な研究のための青写真でもあった。彼は、ブルーブックの仕事はUFOを説明することではなく、UFOの不在を説明することだったと書いている。エイリアンの宇宙船に関するあらゆる憶測を退けることに力を注いだコンドン・レポートは、さらに悪質だった。代わりに必要なのは、宇宙船にも気象にも金星にも偏向しない不可知論的なアプローチだった。

UFOは本来定義付けできないものだ。しかし、調査研究ジャーナリストのレスリー・キーンが著書で書いているように、コンドン・レポートは科学者や当局者に見て見ぬふりをする許可を与えた。その一方で「メディアはUFOを笑いものにしたり、SFの世界へと追いやったりして大いに楽しむことができた」のだ。ロバートソン委員会は、ついにその使命を果たした。UFOの”黄金時代 “──公式の調査や議会の聴聞会、記者会見、独立機関による科学的研究、強力な市民グループ、ベストセラー本、雑誌の巻頭特集などがあった時代は終わりを告げた。ハイネックはその後も独立した組織を設立して研究を続けたが、世論の流れを変えることはできないまま、86年に75歳で亡くなった。

「本当に良質な事例」

UFOが自分のライフワークになると確信したキーンは、ハイネックが開拓したUFO研究の伝統に自分も加わろうと決意した。UFO研究家は、ロズウェルのような歴史的事件にこだわる傾向があるが、そうした事件では、かつては存在したかもしれない確実な証拠も、いまでは絶望的なまでに神話の中に絡め取られてしまっている。

キーンは、ブルーブック終了後に報告された「本当に良質な事例」に的を絞ることにした。パイロットなどの専門家が目撃し、できれば複数の証人がいるもの、写真やレーダーの追跡記録で実証されているもの、そして特に専門家がUFO以外の解釈を排除しているケースだ。

キーンが研究した事件のひとつは、80年に起きた「英国のロズウェル」として知られる不気味な事件だ。数人の米空軍将校が、英国のレンデルシャムの森にあるRAFベントウォーターズ基地のすぐ外で至近距離からUFOを目撃したと主張した。基地の副司令官がその録音記録を残している。キーンの著書に書かれている事件の詳細は、控えめに言っても衝撃的なものだ。もうひとりの目撃者ジェームス・ペニストン軍曹は、静かな三角形の宇宙船に近づいて船体が帯電しているのを感じ、表面に象形文字のようなデザインが刻まれているのが見えたと証言している。

キーンはつねに「ディスクロージャー」という言葉を避けてきたが、コンドン・レポートの提言にもかかわらず、政府がUFOに対する根強い関心を隠し続けてきたことは明らかだと考えている。

76年、イラン空軍の飛行隊長であるパルヴィ・ジャファリ少佐は、テヘラン郊外のソ連との国境に近い地域に出現した光るダイヤモンドを迎撃するためF-4ジェット機で緊急出動した。キーンの著書に寄稿したジャファリは、彼が近づくとその物体が「赤、緑、オレンジ、青の強烈な光を放って本体が見えないほどだった」と書いている。そして気づくと武器や無線通信が妨害されていた。

イランのアメリカ情報筋は、この事件について4ページにわたって記したメモを機密情報としてワシントンに送っていた。キーンは、このメモに添えられていたローランド・エヴァンス大佐が書いた評価をわたしに読み上げてくれた。「驚くべき報告である。これは古典的なケースだ。UFO現象の研究対象として必要な基準を全て満たしている」。彼女は大げさに眉をもち上げて言った。「政府の文書には珍しい表現ですよね。特に、彼らがUFOには興味がないと言っているときにはね」

2002年、「Sci Fi Channel(現Syfy)」のプロジェクトディレクターであるラリー・ランズマンは、テレビの特番の素材になりそうな「よく知られたUFO事例に関する新しい政府記録を探す取り組み」としての一般公募を指揮するためにキーンを招いた。プロデューサーたちは、弁護士や調査員に加えてワシントンにあるポデスタ・マトゥーン(PodestaMattoon)というPRグループを雇った。

当時ポデスタ・マトゥーンのエネルギー・環境部門の責任者だったエドウィン・S・ロスチャイルドは、キーンにこう言ったのを覚えている。「ほとんどの人がこう思っているでしょう。われわれの知らない何かが存在すると。でもそのことについてあなたが話し始めると、頭のおかしい人だと思う人たちもいるのです」。彼は続けた。「わたしたちは信頼できそうな人とできなさそうな人との間に明確な線引きをしなければなりませんでした」

キーンが選んだのは、1965年12月9日にペンシルヴァニア州のケックスバーグという、ピッツバーグの南東にある小さな田舎町に、フォルクスワーゲン・ビートルくらいの大きさの物体が空から急降下してきたとされる事件だ。複数の目撃者によると、どんぐり型の大きな物体が、銃を持った軍人が警備するなか、平台型のトラックに載せて森から運び出されたという。

キーンは情報公開法に基づいてNASAのファイルを請求した。そのなかには現場から回収された残骸についての情報が含まれていると彼女が確信している資料も含まれていた。NASAは、関連する記録は87年に所在がわからなくなっていると主張した。請求が無駄に終わったキーンは、コンプライアンスを強制するためにNASAを相手取って訴訟を起こした。このときロスチャイルドが、クリントン大統領の元首席補佐官で、政府の透明性とUFOの両方に関心があることで知られていたジョン・ポデスタ[編注:ポデスタグループの共同創業者でもある]をキーンに紹介し、ポデスタが公式にこの訴訟を手助けしてくれることになった。

キーンが和解を勝ち取るまでに4年もかかったが、彼女が受け取ったのは、その大部分が事件と無関係な何百という書類だった。ポデスタはわたしにこう言った。「それが何を意味するかははっきりしていました。地下室の箱がなくなったり、犬がわたしの宿題を食べたと聞かされたときにあなたにもわかることです。NASAはただ、実際に起こったことを認めようとしなかったのです。わたしは、それが返還したくないソ連の衛星の残骸だと完全に信じていましたが、証拠は何もありませんでした――40年も経っているのにNASAが白状せず、それが何であると考えているのかさえ言わないもっともな理由はありませんでした」

キーンが発見したように、冷戦時代のパラノイアと妨害主義のなごりが、依然としてUFO問題を混乱に陥れていた。2006年11月7日午後4時ごろ、シカゴのオヘア空港のC17ゲート上空約1,900フィート(約600m)に、回転する金属のような円盤が浮かんでいるのが目撃された。その物体は数分間、空中を浮遊したのち急上昇し、「船が浮かんでいた雲の層にほぼ完全な円形の穴を残して」去っていったと、匿名の目撃者が後に語っている。

シカゴ・トリビューン紙が目撃情報を掲載すると──すすんで聞き取りに応じた目撃者はひとりではなかった──同紙のウェブサイトでは、それまでに最も多く読まれた記事となった。当初、アメリカ連邦航空局(FAA)は、この事件に関する情報は一切ないとしていたが、メディアの開示請求にあい、ユナイテッド航空のスーパーヴァイザーと航空管制官の間で交わされた電話の録音が存在することが明らかになった。

録音では、スーという名のスーパーヴァイザーが、「C17の近くで空飛ぶ円盤を見ましたか?」と尋ねる。すると笑い声が聞こえ、「空飛ぶ……君がいま、円盤を見てるのかい?」と管制官が訊く。スーが「いいえ、C17のランプエリアにいたパイロットがそう言っていたんです」と答えると、管制官はしばらく黙ってから「今日はクリスマスのお祝いでもしているのかい?」と言い、さらにこう続けた。「わたしは何も見ていないよ、スー。もし見ていたとしてもそうとは認めないね」

FAAは、その物体は〝穴あき雲〟──ぱっくりと円形の穴が開いた巻積雲もしくは高積雲で、氷点下で現れることがある──に違いないと主張した。キーンは気象学者に問い合わせて、その日は穴あき雲ができるには気温が高すぎたことを知る。憤慨したキーンは、著書にこう書いている。「オヘア事件についての事実を知っている人々は、またもやUFO事件を扱うのを避けようとしたことが明白な政府に対して、いまも不信感を抱き続けている」

※第3回に続く