祝! ノーベル物理学賞受賞。
「現代物理学の奇才」とよばれるロジャー・ペンローズ博士が、ブラックホール研究の功績を理由として、2020年のノーベル物理学賞を受賞しました。
彼の壮大な宇宙観を、エキサイティングに解きほぐす――。じつは、人気サイエンス作家・竹内薫さんのデビュー作のテーマこそ、ペンローズでした。題して、『ペンローズのねじれた四次元〈増補新版〉』。
ペンローズとはどんな人物なのか? 何をなし遂げたのか?
鮮やかなストーリーテリングとともにその魅力の全貌を描き出した同書のプロローグ「鍵」を特別全文公開!
20世紀の終わり。ケンブリッジ。
古風な石造りの建物は、ヴィクトリア朝の栄光の跡をとどめている。
ケンブリッジのどんよりと曇った光が、淡いステンドグラスを通して階段の踊りに陽炎(かげろう)のような不可思議な模様を描いた。
その模様を二つの影が音もなく横切り、2階へと上っていった。
静まりかえった館内の空気は冷たく、廊下に敷き詰められた緋色の絨毯(じゅうたん)の黴(かび)くさい臭いがかすかに漂う。
太いストライプのダブルに派手なネクタイをしめた初老の紳士が、ズボンのポケットから鍵の束を取り出した。じゃらじゃらという金属音が洞窟のような暗い廊下にこだました。扉に鍵が差し込まれた。
「…………」
男の顔が曇った。鍵が開かないのである。
「大丈夫ですか?」
もう一人の若い男が、心配そうな顔になって訊(き)いた。
「うん、ちょっと待ちなさい」
初老の男は、そう言うと、鍵の束を目の前にもってきた。一つひとつ丹念に眺めている。しばらくすると、
「うん、このパターンだ」
笑みを浮かべながら、一つの鍵を扉の鍵穴に差し込んだ。
ギイーという音をたてて、重い木の扉が部屋の内側に向けて開いた。とたんに、部屋に充満していた無数の光子の群れが、洪水のように緋色の絨毯の上に降り注いだ。
「かけたまえ」
初老の男は、部屋に入って扉を閉めると、若いほうに椅子をすすめ、自分も向かいに座った。
「ありがとうございます、サー・ペンローズ。あの、さきほど廊下で鍵を見つめておられましたが、みんな同じような形の鍵でしたよね」
「ああ、同じ会社が作っている鍵だからね」
「じゃあ、どうして、どの鍵がこのゲストハウスの扉のものか判(わか)ったんですか?」
「鍵の刻み目を覚えているんだ」
「え? 刻み……ですか」
ケンのティーカップが宙で止まった。
「そう、ご存じのように、すべての鍵には特有の刻みのパターンがある。わたしは、もっている鍵の刻み目をすべて記憶しているのだよ」
「へぇー」
ケンが感嘆のため息をもらした。
「きみは音楽が好きかね?」
「はい」
「どんな音楽を聴くのかね?」
「はい、ワーグナーなんか好きですね」
「音楽にも、メロディやリズムのパターンがあるだろう?」
「はい」
「モーツァルトの『ト短調交響曲』とワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』のパターンが違うことは聴けばすぐにわかるだろう?」
「そうですね」
「それと同じで、鍵の刻み目だって、見ればすぐにわかるのさ」
それから1年後。日本。
ケン・モージャイは、愛車のスカイラインGT-Rで京葉道路をかっ飛んでいた。
今日は、師匠のロジャー・ペンローズ卿がイギリスから飛行機で成田にやってくる。空港で出迎えなくてはいけないのに、朝寝坊をして、時間ぎりぎりになってしまったのだ。
だめだ、間に合わねえ!
「羊の皮を着た狼」の異名を取る8代目スカイラインは、誰が聞いても狼とわかるような唸(うな)り声をあげて、次々と追い越し車線をふさぐ車に背後からパッシングを浴びせて走り続けた。
やがて、左の走行車線を走っていた紺色のBMWの姿がケンのバックミラーに映った。いきなり、助手席から、にょきっと手が出て、赤色灯をルーフに置いた。
「その車、ゆっくりと車線を変更して、パーキングエリアに入りなさい!」
という拡声器の声が聞こえた。
「なんで、BMWがパトカーやってんだよ」
ケンは舌打ちしながら、アクセルを踏み込む足の力を抜いて、左のウィンカーを出した。
警察にこってりと絞られて、足止めを食ったケンが成田に着いたのは、師匠の乗った飛行機が到着してから1時間も経ってからであった。空港正面の駐車場に車をとめて、ケンは、到着ロビーまで一目散に走っていった。
突然、後ろから、かん高い口笛の音が聞こえた。映画でタクシーをとめるときに吹くおなじみの合図である。ケンが足を止めて振り返ると、そこには、懐かしい師匠の顔があった。
「ケン、ここだよ!」