Memo. Dec. 29th. 2020
墨晶

 書く為の、メソッドと云うか、ゲームを考案する(し続ける)。最終的に一つのテクストが導かれるゲームだ。「ゲームの結果=テクスト」よりも、その作戦に作品性がある、そんな試みを。
 読む者は戸惑うかもしれない。しかし、それは必要だ。何故なら、この世で、「何だかわからない事」が、あってはならないからだ。

 「何者でもない者の語りの可能性」を放棄すると云う事とは、「賭けない」と云う事だ。賭け、ゲーム、遊び。何故、ことばの創造に関してのみ、不当に地位が低いのか、禁忌なのか? 「遊び」から派生した「何か」は取るに足りないものなのか? 「取るに足りない」なんて、誰もが好きな属性である筈なのに。

 結局、多く日記や手紙のような書法に誘導されていく。つまり、採点・添削と云う大審問官の許しが必要なのだ。そんなに夏休みの宿題をこなすのが好きか?

 日常をなけなしの修辞で彩色する。
 誰かにとって意味があり、またそれが誰かによって受容される経済があり、それを媒介していたものが「人間性」だろう。いいや、ことばはそれほど優しくない。
 大審問官は「平坦で優しい人間」の生産へ帰依する。存在しないものの創造性、つまり、想像力が敵なのだ。


 「新体詩」から138年。結局、連綿と「新しい」階層ヒエラルキーを創り、死守しただけの歴史。


 驚きたい。手品が見たい。


 「何だかわからないもの」をデザインする。
 
 
 


散文(批評随筆小説等) Memo. Dec. 29th. 2020 Copyright 墨晶 2020-12-29 23:19:37
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