陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2022

創価大・三上雄太、主将として駆け抜けたラストイヤー 箱根駅伝で感じた絆と共鳴

三上はラストイヤー、覚悟を決めて主将となった(写真提供・創価大学駅伝部)

競技に対して必ずしも高い向上心があったわけではない。創価大学の三上雄太(4年、遊学館)は、むしろ「流れに身を任せるまま」に創価大に入学してきた。2019年に榎木和貴監督就任とともに飛躍したチームの中で、自身もしっかりと力をつけ、大きな挫折も糧にして、3年目の箱根駅伝往路優勝という快挙につなげた。最終学年では主将も経験し、人としても大きく成長。入学当初の想定をはるかに上回った充実の4年間を振り返ってもらった。

2年目の箱根駅伝は当日変更でメンバー漏れ

普段から感情的になることはあまりない三上が、「陸上競技をやってきて、初めてめちゃくちゃ悔しいと感じた出来事」と話すのが、20年の正月、2年生で迎えた箱根駅伝だった。区間エントリーでは7区に入ったが、当日変更で補欠に回り、寮のテレビでチームメートを応援するしかなかった。同期の嶋津雄大(若葉総合)が10区で区間新を打ち立てるなど、チームは一丸となって戦い、出場3回目にして総合9位と初のシード権を獲得した。

「いろいろと挨拶に行く時も16人で行くのですが、他のみんなが周りから喜ばれている中、僕は正直、全然うれしくなくて、完全に蚊帳の外。自分は何やっているんだろうという感覚で、同じく出番がなかった同期の永井大育(樟南)と、『来年は絶対に走ろう』と誓い合いました」

広島県出身の三上は、中学の部活動で陸上を始め、遊学館高校(石川)を経て、創価大に進んだ。これは、「中学の陸上部の外部コーチが、その中学を卒業した後、遊学館、創価大と進んだ人で、紹介されるような感じで」同じ道をたどったに過ぎない。競技レベルを上げたい、日本一を目指したいといったギラギラした向上心を持っていたわけではなかった。

もちろん、その時々で精いっぱい取り組み、特に遊学館では「先生も厳しく、1年のうちで全く走らない日は2、3日しかなかった」ほど。三上は1年目に飛躍的に力をつけ、3年連続で全国高校駅伝(都大路)に出場している。3回の区間順位は、6区49位、3区39位、3区23位。チームも51位、34位、32位と、上位を走ることは一度もなかったが、「全国にはすごい選手がたくさんいるんだな」と思った程度で、「楽しく3年間を過ごせたし、都大路を楽しめた」ことに満足感があった。

中学時代のコーチと同じ道を通って創価大に進学した(撮影・藤井みさ)

創価大に入ってからも、「箱根駅伝に出るような人は雲の上の存在。自分は4年間で1回出られたらいい」と、三上の控えめな態度は変わらなかった。練習環境や内容については、「質が高くなりましたが、高校までのやらされている感覚とは違い、自分に合った内容に変えられる自由な感じがあり、やりやすかった」という。それでも1年目は、チームは箱根駅伝予選会で15位に沈んで2年連続で本戦出場を逃し、三上もその予選会を走るチャンスはなかった。

榎木監督就任で環境が一変

まもなく2年生に上がるという2月、かつて中央大学時代に箱根駅伝で4年連続区間賞に輝き、総合優勝も経験している榎木さんが駅伝部の監督に就任した。まだまだ主力ではなかった三上も「別のチームになった」と感じるほど様々な面で変革が行われた。

「練習の一つひとつに意味が設けられ、選手個々に練習メニューや食事の指導もあって、一人ひとりに向き合ってもらうようになりました。GPS付きのランニングウォッチが全部員に配布されたのは、情報が可視化され、チーム内で競い合うことが目的でした」

そうした中で三上は、「走行距離の月間目標が増えたことが大きかった」と話す。「毎月750kmを目指そうと。それまではチームでも距離を踏むという意識があまりなく、僕は最も多くて、夏合宿がある8月の600kmでした。500kmいっていない月もあって、750kmと言われた当初は、みんなで『できるわけないじゃん』と笑っていました」

ただ、750kmをクリアできる選手が少しずつ増えていくのと比例して、一時は「部員の3分の2ぐらいいた」という故障者が減っていく。上昇気流に乗ったチームとともに、三上も自身の成長を実感していた。

初出場を果たした箱根駅伝で往路優勝

ところが、「次こそは箱根を走る」と強い決意でスタートした3年目のシーズン前半は、コロナ禍により4月から約2カ月間、広島の実家で過ごすことになる。「与えられたメニューを1人でやるのはきつかった」が、箱根駅伝を走れなかった悔しさを糧に「1回もサボらず、早朝と午前か午後の練習を全てこなした」という。

夏に参加させてもらった実業団の合宿では、実業団選手以上に走ることができた。10月と11月に5000mの自己ベストを連発し、「仮想・箱根5区」と言われた11月下旬の激坂最速王決定戦では、「他大学の選手にどれだけ通用するか。10番ぐらいで走れれば」と考えていた中で優勝。走るたびに自信を深めていった三上は、ついに箱根駅伝出場を果たす。

三上は首位で襷を受け取り、区間2位の快走で往路優勝をチームにもたらした(撮影・佐伯航平)

任されたのは山上りの5区だった。三上は中国中学校駅伝で、上り基調の区間を3位で走破して以来、上りを得意としていた。当時、同級生の母親から言われた「上りを平坦と思って、平坦を下りと思って走れ」という言葉は今でも頭にあるという。創価大は1区から好位置につけ、三上は4区でトップに立った嶋津から襷(たすき)を受け取ると、勢いよく小田原中継所を飛び出した。

「今、自分は出たかった箱根駅伝に出て、すごいことをしているんだな、という感じでしたが、とても冷静に走れました。4区までの選手がしっかり走れるということは、一緒に練習してきた自分も走れるはずだと。タイム差もあったので、自分のペースを刻めば、1位で持っていけると自信を持っていました」

その言葉通り、三上は区間2位の快走を見せ、創価大初となる往路優勝のゴールテープを切った。翌日の復路は最終10区の終盤に逆転されたものの、堂々の準優勝。2021年箱根駅伝で創価大が巻き起こした旋風は、多くの箱根駅伝ファンに衝撃を与えるものだった。

主将として過ごした試行錯誤のシーズン

「4年間で1回出られたらいい」と思っていた箱根駅伝を最高の形で終え、新たにスタートを切ったチームで三上は主将に指名された。「自分はキャプテン向きじゃない」と一度は断ったものの、「選ばれたからには自分にも何かできることがある」と考え直し、前向きに大役を引き受けることに決めた。

「今までのキャプテンは明るく、みんなと仲がいいというタイプでしたが、僕はそこまで積極的に人と話す感じではなかったので、まずは一人ひとりとコミュニケーションを取ることから始めました。あとは言葉で引っ張ることは難しかったので、走りの面で常にAチームで練習から引っ張っていこうと思いました」

箱根駅伝で結果を残してきた同期の嶋津(奥)は、三上にとっても大きな存在だった(撮影・北川直樹)

だが、「もっとやらないといけないと過敏になり過ぎた」ことで、本来の自分のリズムが崩れてしまう。レースでは比較的ゆっくり入って、後半もペースを落とさずに走り切るのが三上のスタイルだったが、強さを求めることを意識したあまり、無理をして先頭の方でレースを進め、終盤に失速するレースが増えた。5月の関東インカレ2部10000mは24位と振るわず、翌月の全日本大学駅伝関東学連選考会も組30位に沈み、故障者が多発したチームも14位と大敗した。

疲労が蓄積した中で始まった夏合宿も「体がどんどん動かなくなり、3次合宿の後半は全然練習ができなかった」。9月中旬の日本インカレ10000mも30分43秒01で19位と大苦戦。しかし、苦しんでいる三上を見た後輩たちが「三上さん、頑張りすぎですよ。少し休んでください」とかけてくれた言葉に、三上は「いいチームだな」と思うとともに気持ちが救われる。出雲駅伝は回避したものの、その翌週に10000mで29分03秒20の自己ベストをマークするなど、少しずつ調子を取り戻していった。

最後の箱根駅伝を終え、「敵」が「味方」に

最後の箱根駅伝も三上は5区に起用された。「前回と大きく違ったのは、近くに他の選手がいたこと。状態も前回ほど良くなかった中で、本格的な上りに入る前に脚を使い切ってしまい、頭が真っ白になってしまいました」。4区の嶋津が区間賞の力走で、11位から5位に巻き返したが、三上は区間12位と苦しみ、往路は8位、総合7位でレースを終えた。

「今年は去年と打って変わって、きつく、しんどい箱根駅伝でした」と語る三上だが、4年間というスパンで見ると、「大学の歴史を作る瞬間に立ち会えたことがうれしいですし、箱根駅伝というすごい経験をできた」と充実した表情を浮かべ、「初めてチームをまとめるという大仕事をさせてもらい、この経験は今後に生かせる」と感じている。卒業後に入社予定の中国電力では、「マラソンにチャレンジしたい」そうだ。

前回5区を走った時よりも苦しい走りとなったが、大学4年間は三上にとってかけがいのない時間となった(撮影・佐伯航平)

創価大の今年度の4年生は、日頃から仲が良く、強い絆で結ばれていた。それとは別に三上は、箱根駅伝で5区を走った他大学のライバルたちに、共鳴に近い思いを抱いていた。「今までは話せる機会や雰囲気もありませんでしたが、僕は帝京大の細谷翔馬君(4年、東北)や東洋大の宮下隼人君(4年、富士河口湖)と話してみたかった。今回のゴール付近で仲良くなって、SNSでもフォローしてくれて。ずっと敵だった人たちが一気に味方になったようで、ちょっといいなと思いました」

三上は4年間でいつの間にか、競技に対して熱い思いを持つようになり、全力で過ごした日々を通して、かけがえのない財産を手にしていた。

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