“虎ハンター”小林邦昭ヒストリー<15>「タイガーマスクの覆面を剥いだ夜…虎ハンター誕生」

スポーツ報知
タイガーマスクの覆面を剥ぐ小林邦昭(写真は本人提供)

 1980年代前半に初代タイガーマスクと激闘を展開し“虎ハンター”と呼ばれた小林邦昭氏(64)が2000年4月21日に引退してから今年で20年となった。1972年10月に旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。タイガーマスクとの抗争、全日本プロレスでは三沢光晴の2代目タイガーマスクと対戦、さらに平成に入ってからは新日マットで反選手会同盟、平成維震軍で活躍した。WEB報知では、「“虎ハンター”小林邦昭ヒストリー」と題し、記憶に残る名選手のレスラー人生を辿る連載を展開する。第15回は「タイガーマスクの覆面を剥いだ夜…虎ハンター誕生」(福留 崇広)

 1982年10月8日、後楽園ホール。メインイベントの6人タッグマッチで藤波辰巳(現・辰爾)へ反逆した長州力の行動に小林邦昭は触発された。

 「長州が藤波さんにかみついたんだったら、俺はタイガーマスクにかみつかないと生き残れないと思ったんですね。この日の後楽園で初めてタイガーマスクの試合を見て凄いと思ったんですが、だからこそ、こいつにかみつかないとダメだって思いました。それは、誰かから指示されたとかそんなレベルではなくて、自分で勝手に考えたんです」

 すでにシリーズ前には10月26日の大阪府立体育会館でタイガーマスクのWWF世界ジュニアヘビー級王座への挑戦は発表されていた。ただ挑戦するだけではインパクトはない。小林は具体的に「かみつく」行動に出た。タイトルマッチ4日前の10月22日、広島県立体育館でのテレビマッチでレス・ソントンと対戦するタイガーマスクを試合前のリングで襲撃。タイガーマスクへの反旗を敢然と翻したのだ。迎えた大阪決戦。「かみついた」小林だったが初対決でタイガーマスクの力を思い知らされた。

 「初めてシングルで対決した時、タイガーマスクは僕が想像する“凄い”を通り越していました。何しろ蹴りがそれまで、ダイナマイト・キッドとかブラック・タイガーとかに出す蹴りとまったく違っていました。遠慮なしに来ましたよ。佐山とは前座のころに対戦してサンドバッグ状態で蹴られていましたけど、その時とは比べものにならないぐらい速かった」

 外国人選手との対戦では、見せていなかった容赦ない蹴り。遠慮ない危険な攻めは、虎の覆面をかぶったタイガーマスクではなく佐山サトルとして1年先輩の小林と対峙していたのではないだろうか。前座時代から切磋琢磨してきた小林が相手だったからこそ、佐山は、思う存分、蹴りを叩き込むことができたのだろう。そして、小林は、決戦前にある決意を固めていた。それが、覆面を剥ぐことだった。

 「ゴールデンタイムで放送される試合だし、とにかく何かを残さないとダメだと思っていました。だったら、マスクを剥いでやろうって内心、思ったんです。それは、例え僕が勝っても負けてもファンは“いい試合だった”で終わるんですね。それだけじゃなくて、“この次はどうなるんだろう”って思わせなきゃいけないと思ったんです。そのためには、マスクを破くことによって次どうなるんだろうってファンに思わせることができるんじゃないかって考えたんです。それが僕がマスクを破いた理由だったんです」

 そして、小林は実行する。コーナーにタイガーを逆さづりにするとマスクを剥ぎにいった。レフェリーのミスター高橋の制止をふりほどき反則負けになったが、試合後もなおマスクを剥ぐ暴挙に客席からリングへ物が投げ入れられた。81年4月23日にタイガーマスクがデビューしてから、ここまでマスクを破かれたのはこの試合が初めてだった。ファンの怒りは、確かに小林が「次へ」の爪痕を残した証明だった。

 「あの時、マスクを全部はがしてやろうと思ってました。だけど、あごにひっかかってできなかったですね。ただ、かなり、破くことはできたと思います。普通は、マスクは分厚い布でできているから、あそこまで破けないんだけど、とにかく思い切ってやろうって思ってましたから、中途半端だとお笑いで終わるじゃないですか。そんな僕の自分でも分からないパワーがマスクを破かせたんだと思います」

 禁断のマスクを剥いだ小林は、一夜にしてタイガーマスクの宿敵として認められた。1982年の10・26大阪は「虎ハンター」が誕生した記念の日となった。ただ、反響は小林の想像を遙かに上回っていた。(続く。敬称略)

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